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金達寿事典

或る工場の物語(小説)
空白

 ある月刊雑誌を発行している編集部が、事業を拡大させようと印刷工場を持つが、見事に失敗してしまう話。『東洋文化』(東洋文化社)1949年5月創刊号に発表。

 主人公の「私」たちは解放後まもなく、「朝鮮人が日本人のために、日本語で発行する綜合文化雑誌」の発刊を計画し、周囲の在日朝鮮人同胞有志や「朝連」などの組織の援助によって創刊号を出すことができた。しかし戦後の混乱のため印刷工場を探すことが容易ではなく、しかも印刷代は予定の倍もかかってしまった。
 そこで「私」たちはどうにか自分の印刷工場をもちたいと思っていたところ、ある在日朝鮮人からただ同然で印刷工場を譲り受けることができ、30万円近くを投じて設備を整えた。「私」たちはこの「成功」に喜び、これからどんどん仕事を受注して利潤を挙げていこうと勢い込んだ。
 ところがこの工場の設備費用を支えてきた「朝連県本部」からの資金が底をつき、運転資金が全くなくなってしまった。それどころか激しいインフレのため、捻出してきた費用の還流まで求められる始末だった。さらに「私」たちは雑誌の編集や発行には自信があったが、工場経営にはまったくの素人だった。たとえば従業員の採用募集を出してみたところ、翌日には工場の前に10数人の男女が職を求めてやってきた。「私」たちは面接をしたものの、「不採用」になることの辛さをよく分かっているだけに選ぶことができず、全員を採用してしまったという具合である。こうして立派な設備と多くの人のいい従業員を抱えながら、経営は見る見る悪化の一途をたどっていった。
 そんななか、あるとき田村という最年長の従業員の結婚をめぐる話題になった。田村は「私」に、嫁に来てくれそうな当てはあるが結婚資金がないのでなかなか踏み出せないと打ち明け、「私」はつい、結婚資金は会社が貸すからと言ってしまった。田村がいなくなった後、編集部ではお金をどうするかの話になり、このインフレでは1万円ぐらいは必要かもしれない──それでも雀の涙ほどだが──と思った「私」は途方に暮れてしまう。
 それから数日後、田村は「私」に、親戚を嫁にもらうことに決めたと報告した。すると「私」は喜びついでにまた、何の当てもないのに「明日の朝僕のところまでいってきて下さい」と言ってしまった。もちろん会社には田村に結婚資金を貸す余裕などあるはずもなく、個人的にもそんなあては何もなかった。その晩「私」は、愚痴る母親を何とかなだめすかして、ようやく3千円を借りるあてを取りつけ、会社に届いた雑誌代と合わせてようやく5千円を捻出した。
 翌日、「私」のところに田村がやってきた。「私」は田村にいくらぐらい必要かと尋ねた。田村は2500円、できればもう300円ほど借りたいと言った。話が終わると「私」はすぐに編集委員である金と張にその額を伝えた。2人は同時に顔を見合わすと、金はへんな笑い方で頬をくずしながら顔を真っ赤にしていき、張は「悲劇だ、悲劇だ」と呟いた。

 この時期の金達寿は自分や家族・友人たちの体験を素材に小説を書いており、「或る工場の物語」は1946年に創刊した『民主朝鮮』が所有した印刷工場が素材になっている。『民主朝鮮』掲載の文章によれば、民主朝鮮社も46年7月ごろに印刷工場を入手した。ところが工場設立に予想以上に手を取られてしまい、8・9月は合併号、そして10月号と11月号は停刊という大失態を演じてしまったのである。金達寿の自伝『わが文学と生活』や回想「雑誌『民主朝鮮』のころ」(『季刊三千里』48号 1986年11月)に詳しく書かれているように、この工場は最後まで『民主朝鮮』の経営を圧迫した。

 「或る工場の物語」という題名は、『叛乱軍』(1950年5月 冬芽書房)に収録される際に「華燭」と改題され、『金達寿小説全集』にも「華燭」で収録されている。内容は、字句の修正以外はほぼ同じである。

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