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金達寿事典

委員長と分会長(小説)
空白

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)A県本部C支部R分会に新しい分会事務所兼集会場を建てるための資金を出させるため、C支部委員長の李相奉が、徐万徳をR分会の新分会長に推薦することで利用しようとするが、逆に彼の機転で資金を出さされてしまう話。『文学界』1959年3月号に発表。

 1958年2月某日夜、朝鮮総連A県本部C支部委員長の李相奉は、つい3,4日ほど前に突然脳梗塞でなくなってしまったR分会長趙得守の後任を決める臨時総会に出席するため、T海岸通の停留所でバスから降りた。しかし集合時刻から1時間ほど過ぎた午後7時前、彼がR分会の集会場になっている崔台鎮宅に到着してみると、そこに集まっているのは10人足らずしかいなかった。李相奉はそこにいた青年たちに声をかけて人を呼びにやり、それでもようやく20人足らずしか集まらなかったが、総会は始まった。

 李相奉がC市に姿をあらわしたのは「太平洋戦争」中のことで、ある保険会社の外交出張所長としてであったが、その前に彼は東京の大学を出て消費組合運動か何かをやっていたらしく、彼がC市にくるとすぐ警察や特高は彼を「要視察人」リストに加えた。このような経歴と戦争が終わったとき40歳前後だったという年齢から、C市に朝鮮総連支部がつくられたとき、彼はその初代委員長に選ばれ、以後、何度も失脚しながらもいつの間にか復活して委員長であり続けていた。

 彼が委員長であり続けた理由はいくつかある。まず無給であるにもかかわらずこの役職に非常に熱心に取り組んでいたこと。戦後直後ならいざ知らず、今となってはもう自分たちの生活に必死で、誰も無給で委員長をやろうという者がいなかったのである。また定職をもたなくても生活ができたこと。彼はR分会に属し、キャバレーを経営している在日朝鮮人「成功者」の金原一秀こと金一秀から生活費をもらい、その代わりに彼が警察などとトラブルになった際にはその渉外係の役目を果たしていたのである。そして金一秀は李相奉に、運動のためのカンパには一切のらない、万一、金を提供しなければならなくなった場合には李相奉の生活費からその分だけ差し引くと固く念を押していた。金と李とのこの関係は、多くの人びとに周知の事実で、そう思っていないのは李相奉ぐらいだったが、このことは彼の「大衆から浮いている」演説や仕草とあわせて、R分会の在日朝鮮人たちから軽蔑されたり軽んじられる原因となっていた。
 そこで李相奉が議長として指名したのが徐万徳だった。彼は夫婦揃って屑屋の仕事に精を出し、金一秀に次ぐぐらいの財産の家の床下に隠しているのではないかと噂されていた。人びとは李相奉が文字も読めない徐万徳を指名したのが、資金の不足分を出してもらおうと考えていることを見抜き、たちまち賛成した。李相奉は彼で、徐万徳に新分会長という「位」を授けることで、恩を売ろうとしたのである。
 分会のあった翌日、李相奉は徐万徳宅を訪れ、新分会長を引き受けてくれるよう頼んだ。すると意外なことに彼はすぐにその話を引き受けた。というのも実は徐万徳はあらかじめ、総会に出ていた青年たちから一部始終を聞き、対策を立てていたからである。
 さらにその翌日の夜、集会が開かれると、人びとは好奇心から集会場に詰めかけた。しかしいつものように演説をぶった李相奉と違い、徐万徳はざっくばらんな口調で資金集めの話をしはじめ、各家庭の割当額を、その家庭の事情にあわせて修正した。そしてその名簿をもとに青年たちが資金集めにはいると、徐万徳が資金の不足分を出してくれるものと思いこんでいる人びともお金を出し、3日足らずで4万8千円が集まった。
 そして徐万徳は、いよいよ金一秀宅を訪れ、見事に5万円を出させることに成功した。
 金一秀からその額だけ生活費から差し引くと連絡を受けた李相奉は、血相を変えて徐万徳に罵声を浴びせ、しまいには、どうして自分の生活をめちゃくちゃにしようとするんだ、と本音まで吐いてしまった。しかし徐万徳は涼しい顔で、「委員長さんも、こうして働かなくちゃならないんじゃねえですかね」と答えた。

 金達寿はしばしば、自分の体験や友人・家族から聞いた話を素材に小説を書いているが、この小説に具体的なモデルがいるかどうかは不明。

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