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金達寿事典

八・一五以後(小説)
空白

 日本の敗戦直後の在日朝鮮人社会の活気を背景に、その中で活動する主人公の李英用の姿と、彼の家族を襲った悲しみを描いたもの。『新日本文学』1947年10月号に金達寿の筆名で発表。以下のあらすじは初出にもとづく。

 日本が敗戦すると同時に、日本各地で希望のない生活を余儀なくされていた朝鮮人は、我先に朝鮮に帰ろうと雪崩を打って各地の港に殺到した。彼らの帰還を支援するためにC・Rの各支部の指導者たちはこぞって自県下の同胞を送り出したが、K県本部にいた李英用もまた、その活動に従事していた一人だった。
 李英用は10歳で父を亡くし、母に連れられて渡日した後、苦労を重ねてある私立大学専門部を卒業した朝鮮人である。彼は卒業後、地元の新聞社に入社したが、さらなる野心に駆られて京城に渡り、朝鮮最大の新聞社に入社した。しかし8ヶ月ほどの間に朝鮮の現実を見せつけられ、居たたまれなくなって日本本土に戻り、そこで敗戦を迎えた。
 英用は自分が敵である日本の戦争を煽った新聞記者だったことを深く恥じて同じ集落の朝鮮人青年たちの前で懺悔し、さらにその負い目を少しでも軽減されるのを望むように、C・Rが設立されると一心不乱に活動した。このため彼は、そのとき妻帯していたのに、まったく妻のことを顧みる余裕がなかった。
 英用は母を敗戦直後に故郷に帰したが、そのとき彼の妻も一緒に帰らせる予定だった。しかし妻は身重だったため、日本にとどまっていたのである。しかし彼女は子を産んで間もなく、22歳という若さで亡くなってしまった。
 さらにそのわずか5日ほどのち、英用は母からの手紙を受け取った。それによると、彼の母は佐世保から三里ほど離れたところにあるH収容所に抑留されているというのである。英用は同じC・Rで活動し、英用と特に親しい宋庸得に先に母を迎えに行ってもらい、自分は妻の葬式を済ませてから後に続いた。
 宋がいろいろ手を回してくれたおかげで、英用の母はまもなく、他の大勢の朝鮮人たちと一緒に釈放された。彼女は弱り切っており、英用と宋は心配して佐世保の旅館で一泊することを進めたが、母はすぐに帰りたいと言い、三人はひとまず大阪に住んでいる母の甥を訪ねることにした。甥夫婦は彼らを歓迎し、数日間は泊まっていって欲しいと言ってくれた。3人はいったんその好意に甘えることにしたものの、甥の河圭秀が、独立だろうが何だろうが金こそあればどんな世の中が来ても大丈夫だなどと得意げに話すのに辟易し、翌朝早く大阪を後にした。
 英用は宋に、忙しいのに佐世保まで行ってくれた礼を述べて彼と別れ、母を自宅に連れて帰った。英用は母に妻の死を話していなかった。そのため彼の妻が出迎えてくれると思っていた母は、家を間違えたような顔をして、家の前であたりを見まわした。
 彼は黙ったまま母を家に入れ、机の上においてある妻の遺骨を指さして彼女の死を伝えた。その瞬間、母は、自分が帰っている間にどうして死んでしまったのか、独立もしなければお前も死んでしまう、可哀相だと、とめどなく号泣した。英用はしばらく黙ってその様子を見ていたが、やがて母の様子が少し落ち着くと、彼女に、僕は本部に行くからもう泣くのはよしてくださいと声をかけた。表を出て歩いていると、「すべてはこれからだ」という宋の言葉が彼の唇を突いて出た。

 金達寿はこの時期、自分や家族・知人の体験を小説化して発表しており、この小説も人物設定などの細部は違っているものの、全体としては彼が体験したことがほとんどそのまま、李英用の体験として書かれている。
 金達寿の妻の福順は、1945年12月5日に長男の章明を産んだ後、肺結核が再発し、回復しないまま46年9月30日早朝に亡くなってしまった。
 また金達寿は同じ時期、母の孫福南からの手紙を受け取っている。小説では妻の死の数日後だが、実際の日付は不明である。小説では宋庸得と2人で彼女を迎えに行ったとあるが、実際には宋庸得のモデルである朝連神奈川県本部の外務担当常任の宋容徳のほか、金達寿の兄の声寿も一緒だった。ちなみになぜこのとき福南が収容所にいたかというと、彼女が故郷に戻っている間にGHQが朝鮮人の再渡日を密入国とするという法令を出したため、それを知らない多くの朝鮮人が収容されてしまったのだが、彼女もその一人だったというわけである。
 さらに小説では大阪に住む福南の甥の家で一泊しているが、この人物については何もわからない。
 小説の最後の、英用が妻の死を母に伝え、彼女が号泣する場面は、この小説の中でもっとも感動的な場面であるが、淡々とした描写でありながら真に迫っており、実際にもこのような光景があったのではないかと思わせられる。

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