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金達寿事典

朴達の裁判(小説)
空白

 南部朝鮮Kという架空の町を舞台に、朴達と呼ばれる朝鮮人青年が一人で繰りひろげる奇妙な政治運動を描いた小説。『新日本文学』1958年11月号に発表。

 朴達は本名を朴達三といい、5歳の時からK市郊外にある南朝鮮きっての大地主・劉家の作男として働かされ、両親の顔も知らず教育も受けずに育った。20歳のとき、第二次世界大戦に日本が敗北して朝鮮が解放されると、劉家の旦那の様子がいやに優しくなったものの、間もなくアメリカ人と仲良く付き合うようになるとまた再び朴達を怒声でこき使うようになった。
 そうして3年ほどが過ぎたある日、朴達は突然、町の警察署に検挙された。前日、朴達の村にあった軍・警支署がパルチザンに襲撃されたため、とばっちりを受けて捕まってしまったのである。留置場にいた2ヶ月あまりの間、彼は多くの政治・思想犯と出会い、彼らの存在や知識に大きな衝撃を受けた。暇をもてあましていた彼らは朴達に、ハングルの読み書きから世界の歴史まで様々なことを教え込み、朴達も文字どおり目覚めたようにそれを学んだ。のみならず朴達は、釈放された後も彼ら政治・思想犯に会うためにわざと捕まっては、まるで学校に通うように留置場通いをした。
 そうして出会った政治・思想犯の中で朴達がもっとも印象に残っているのが姜春眠という若いパルチザンだった。姜は京城のブルジョアの息子で、京城の大学生だったときにパルチザンに加わって太白山脈中部で活動していたところ、逮捕されたのであった。姜は最初、わざわざ留置場通いをする朴達を理解できなかったが、まもなく強い興味にかわり、自分がこれまで身につけてきたあらゆるものを朴達に叩きこもうとした。朴達もそれに応えて一生懸命に勉強したが、やがて姜は処刑されてしまった。親に連絡をとって転向宣言をすれば処刑させずにすんだ可能性が高かったのに、それを拒否して処刑を受け入れた姜や、やはり釈放と引き替えに転向を表明することを拒んでいる多くの政治・思想犯の節操に、朴達は感動を覚えた。
 それにもかかわらず、朴達は間もなく留置場通いをしなくなるどころか、検挙されると一日も早くそこから釈放されることを考えるようになり、そのためにすぐ転向を表明するようになった。
 この奇妙な朝鮮人青年は、朝鮮戦争の直前、獄中で習い覚えたハングルを用いて戦争反対などのビラを配り、いちやく町の有名人になった。彼はもちろん逮捕されたが、朝鮮戦争が始まって間もなく北朝鮮人民軍の南進によってK市の政治・思想犯が釈放されると、一緒になって釈放された。その後、戦争が終わるまで朴達はくみ取り人夫などをしながらおとなしく過ごした。
 そして1953年7月、朝鮮戦争の停戦協定が結ばれると、朴達はまたもやアメリカ軍の撤退を呼びかけるビラなどを作ってアメリカ軍兵士に渡しはじめ、これによって検挙された。するとそのたびに彼は転向を表明して釈放され、釈放されるとすぐにまたビラを配って検挙されるということを繰りかえした。そうこうするうちに彼は検察市庁から起訴されるようになり、他の「悪質」な政治・思想犯と一緒に朴達を消してしまうことも検討された。しかし彼らは、有名ではあるが無学な青年に過ぎない朴達を処刑してしまうと、こんな男まで怖がっているのかと町の人々から思われるのが何となく怖く、さらに警察や検察庁の中にも朴達に好意的な者さえ出るなどしたこともあり、ひどい拷問を受けることはあっても処刑されるまでにいたることはなかった。

 そして何度目かわからない釈放の場面から、この物語ははじまる。刑務所を出た朴達はいったんどこかへ姿を消すが、夜になってある飲み屋に姿をあらわした。すると居合わせた客のうち、朴達のことを知っている者が次々に犬汁や生豆腐などを差しだして朴達の釈放を祝った。しかし彼らは働いてもいっこうに楽にならない暮らしをしており、刑務所暮らしの朴達の方が元気なほどである。
 と、崔東吉なる男が、いっそストライキをやってアメリカ軍や警察などをあっと言わせたいと吐き出した。朴達は彼に近づくとストの話をしはじめた。が、そのとき私服警官が店に入ってきて、彼らを解散させた。
 店を出た朴達は、店で働いている丹仙と一緒に夜の町を歩き、彼女のアパートに向かった。丹仙は故郷の田舎を出たときから男に騙され、馬山の女郎屋に売られたこともある女性で、朴達に強く惹かれていた。また朴達の方もまんざらではないようである。

 それから3ヶ月ほど経ち、間もなく8・15解放記念日というある日、アメリカ軍基地で働いている朝鮮人労働者たちの大部分が一斉に奇妙なストライキを起こした。といっても何か要求を掲げたわけではなく、たんに仕事を休んだのである。アメリカ軍基地から連絡を受けた警察などが慌てて労務者の家々をまわると、みな一様に、組合ができたらしく、そこから今日は仕事が休みだという連絡を受けていると答え、警官たちに否定されるとゆっくり支度して仕事場に向かった。
 この組合は崔東吉が、基地の整備員で皆から人望の厚い全相沢を動かすところからはじまった。彼が加わると言うことで皆も参加したのである。そして彼らは全相沢を委員長、李正柱という青年を副委員長、崔東吉を書記長にして、秘かに組合を結成した。もちろん朴達も委員の一人になった。
 彼らの計画では、このようなストを行うことで交渉の糸口を作る予定だった。ところが基地に集められ、周囲を完全武装したアメリカ兵と警官隊に囲まれてしまうと、全員が弾圧されてしまう怖れが出てきてしまった。と、朴達が幹部たちに声をかけると、いつもの言い方で司令官のカーク中佐の前に進み出て、今回の計画はすべて自分がやったことだと自白した。激怒した警察署長が朴達に殴りかかり、それを合図に警官隊が労働者たちに襲いかかった。
 こうして組合を認めさせるという彼らの計画は失敗したが、しかしその翌日、またもや警察を驚かせる事件が起こった。全市一帯にわたって、アメリカ軍の撤退を求める「K労働組合」のビラが貼られていたのである。警官たちが必死になって剥がしたのち、朴達に丹仙という女性がいたことを思いだすと彼女を検挙し、ついでに近所に住んでいるおかみさんたち5,6人も一緒に引っぱっていった。

 この突然のストにもっとも激怒したのが、M地方検察庁K市庁の治安検事金南徹だった。彼は旧植民地時代には裁判所書記だった男で、当時の反共教育がすっかり身についており、世の中から社会主義とか共産主義というものをすべて叩き潰してしまわなくては独立も何もないと固く思いこんでいた。彼は出世のためつい先日、地方法院のあるH市に、東京・M大学時代の先輩である地方法院長の私宅を訪問して、もう自分の管轄下に共産主義「徒輩」はいないと言明して帰ってきたところだった。
 怒りに我を忘れた彼は、自宅を出ると労働者たちが留置されている所に向かい、朴達を出してくるよう命じると、みずから取調べの拷問をはじめた。しかし金南徹には、朴達が何を思い、どういうわけでこんなことを繰りかえすのかまったく理解できず、何日目かの取調の際、ついに持病の「てんかん」の発作が出てぶっ倒れてしまう。

 やがて秋が深まり、朴達たちの裁判が開かれることになった。
 町の人々は事前にお金を出しあって、弁護士を2人つけたが、彼らのおかげで後半の日取りを知ることができた。町の人々は相談の上、眼光のすわった鋭い者を50人、後半の傍聴席に送り込むことにした。
 公判当日、法廷に入ってきた朴達たちは、身じろぎもせず話もせずに傍聴席に座っている町の人々を見てぎょっとした。朴達は思わず、にやっと笑った。すると傍聴席の50人がいっせいににやっと笑い、これに答えた。被告たちや被告につき従っていた警官たちは彼らの眼光に気おされるようにそわそわしたが、被告たちはすぐにその意味を了解するとうつむいて動かなくなった。朴達も、感動のあまり床に涙を落とした。彼は今はじめて、町の人々が自分の行動を見守ってくれるようになったのだった。「そうだ、これだ、こんどからはこれだ」と、朴達は思った。

 この小説は1959年度下半期の芥川賞候補に選ばれた。しかし、圧倒的な評価だったにもかかわらず、作者がすでに10年近く文壇で活躍しており、新人にはあたらないとして落選、結局このときの芥川賞受賞者は出なかった。
 金達寿はこの小説を、同時代に議論されていた転向問題に触発されて書いており、実際、「朴達の裁判」が『新日本文学』に発表されて数ヶ月後に刊行された『共同研究転向』の中心人物である鶴見俊輔には『朴達の裁判』の単行本を送り、「あなたに読んでもらわないと困る」とまで述べている。しかし金達寿がこれまで自然主義リアリズムの文体で朝鮮人の生活などを描いてきたため、この小説も韓国の下層民衆の逞しさを描いた小説として読まれてしまった。さらに金達寿自身、1960年に4月革命が起こったのち、現在の韓国には朴達がたくさんいると吹聴してまわっており、このこともそうした誤読を生みだす要因になったと思われる。
 「朴達の裁判」は何度も舞台化され、また韓国語やロシア語にも翻訳されている。

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