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金達寿事典

番地のない部落(小説)
空白

 尹チョムジ(爺さん)と呼ばれている老人についての物語。『世界』1949年3月号に発表。

 尹チョムジは本名を尹天直(チョンヂク)といったが、誰からともなく「天地」(チョンヂ)と呼ばれるようになり、さらに年を取るにしたがってチョムジと呼ばれるようになったのだ。彼は今年で62歳になるが、ついぞ今まで結婚することなく過ごしてきた。「豚の谷部落」と呼ばれるその朝鮮人集落に住んでいる人の中には、それは彼の禁欲生活のためだろうと推測している。しかし実際には、彼には太郎という名前の子供があり、そのために自らを押さえつけ、苦しんでいたのである。

 尹チョムジは生まれたときからの作男だったが、主家が没落したため、22年前の春、渡日して北海道へとやって来た。そこで土木工事現場の「飯場長」だった朴一徳のもとで働くことになったが、その冬の積雪がひどかったために仕事ができず、「人夫」が去っていき、ついに一徳も妻と二人の子供を残したまま、有り金をつかんでどこかへ行ってしまった。
 一徳の妻はやがて、一徳は自分を捨ててしまってもう戻らないと尹チョムジを誘惑し、尹チョムジはこの妻と子供たちに囲まれて幸福だった。しかしある日の夜、寝ているところを突然叩き起こされた。一徳がそこにいた。妻は態度を豹変させ、尹チョムジを間男のようにののしった。彼は一徳からさんざん殴られたが、どうにか殴り殺されずにすんだ。
 尹チョムジは数日休んでこの「飯場」から出ていくつもりだったが、折悪く工事が始まり、「人夫」たちもどんどん集まって、「飯場」は急に忙しくなった。すると一徳は尹チョムジを働かせ、立ち去ることを許さなかった。
 やがて冬が来ると、一徳は、今度は早々に北海道での仕事を切り上げ、家族や尹チョムジを連れて南下していった。その車中で彼の妻が子供を産み落とした。一徳がその子供を見て「バカヤロー」と言った瞬間、尹チョムジは恐ろしいことを諒解するとともに不思議な感動にとりつかれた。彼はどんなことがあってもその子供の側を離れまいと決心した。こうして尹チョムジはだんだんと一徳一家の下男に転落していった。しかし尹チョムジは、太郎と捨て鉢に名づけられたその子供と一緒にいられることにただ一つの幸福を噛みしめていた。
 ところで一徳には太郎を含めて二女三男があったが、太郎だけ明らかに異質な名前だった。しかも体格や性格でも、太郎は他の兄弟や一徳とは違っていた。そのため太郎は荒れていき、ついに中学三年生の時に退学させられると、愚連隊の親分になったという噂が出るほど手のつけられない子供となった。日本が敗戦したのはこの頃のことだった。
 尹チョムジはあるとき、朝連の支部の委員長だった李尚求に、この秘密を語った。

 戦争が終わると「内地」にいた朝鮮人たちは朝鮮半島に帰ろうと港に殺到したが、一徳一家や尹チョムジもさっそくその支度に取りかかった。しかし太郎が果たして引き揚げに賛成してくれるか、それが一つの問題だったが、案に相違して太郎はあっさりと賛成した。
 そこで彼らは持てるだけの荷物を背負って下関に行き、船に乗った。すると太郎は自分が背負っていた荷物を放りだし、「もうここまで運んでやりゃいいだろ。あばよ」と言い残して船から離れていった。少ししてその意味を諒解した尹チョムジは、荷物をその場に降ろすと太郎の後を追いかけて下船したが、太郎の姿はどこにもなかった。太郎のいるところが自分のいるところだと信じて疑わない尹チョムジは数日の間下関を探しまわり、ようやくもとのY市に戻っていると気づいた。そこでまた太郎を探しまわり、夜は電信柱の下にうずくまって寝た。
 するとある晩、ついに太郎を発見した。太郎は赤い羽織を着た若い女と一緒だった。太郎は尹チョムジの姿を認めると荒々しく声をかけて「豚の谷部落」に戻るよう言った。すると若い女が、あれは誰かと尋ねてきた。太郎は、「あれがおれのおやじだよ」と返事した。

 ふたたび、尹チョムジは毎日が幸福で仕方なかった。そのころ身を寄せさせてもらっていた相■〔「石」の下に「乙」と書く〕ネ婆さんの家を出て、民主青年同盟の青年たちが集まってうるさいので空いているという部屋を借りて住んだ。そして仕事は青果市場の雑役夫だった。こうして尹チョムジは生まれて初めて自分自身の生活というものを知った。彼は民主青年同盟の青年たちが革命家を歌うのを聞きながら自分でもいつの間にかそれを歌い、その合間に「おやじ」と呟いては幸福に駆られた。
 ところでこの頃、尹チョムジは相■〔「石」の下に「乙」と書く〕ネ婆さんから言い寄られていた。周囲の人たちも結婚してはどうかと尹チョムジを促していた。ある晩も、尹チョムジは婆さんとご飯を食べながら、婆さんからその話を切りだされた。と、婆さんの息子の相■〔「石」の下に「乙」と書く〕が帰ってきて、尹チョムジの家を誰かが訪れていると言った。行ってみると太郎だった。
 太郎は尹チョムジがどんなところに住んでいるのかを見に来たのだが、隣の民主青年同盟が騒がしいのをちょっと覗いて、そのまま立ち去ってしまった。
 太郎が帰ってから、尹チョムジは隣から聞こえてくる声と一緒になって、金日成を讃える革命歌をうたった。尹チョムジはそれらの歌の内容はよくわからないなりに、深い意味がこもっていると思っていた。そして太郎が、民主青年同盟やそこに集まっている青年たちの生活をぜんぜん知らないことを気にした。尹チョムジには太郎を指して言われる「不良」や「与太者」といったものもよくわからなかった。しかし彼は、太郎のしている生活が民主青年同盟に集まっている青年たちに比べてよくないことをはっきりと知っていた。
 日が経つにしたがって尹チョムジのこの考えは強まっていった。もともと彼は歌が好きだから覚えたわけではなく、いわば代理意識にうながされて青年たちのしていることにとけ込み、歌っているのだった。

 金達寿は戦後、自分や家族、友人たちの体験を素材にした小説を書いてきており、この小説にも何らかのモデルはいるのではないかと思われる。しかし共産党に入党する1949年5-6月ごろから、そうした民族主義的な素材のなかで、次第に共産主義的な内容が小説の中で重要な位置を占めるようになっていく。この小説では金日成を讃える歌がそれであるが、またこの小説の半年後に発表された「叛乱軍」では、李承晩政権に反対して韓国の山岳地帯で闘争を続けるパルチザンたちが重要な役割を果たすことになる。

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