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金達寿事典

樋口宅三郎
空白

 1901年10月、宮城県東多賀村(現在の名取市)に生まれる。1920年、19歳の時に釜石鉱山で労働争議をやって馘になり、10月に横須賀に出てきたところ、たまたま相模中央新聞の求人募集の張り紙が目にとまったため同社の門を叩き、副社長の口頭試問を受けて入社する。その後、1931年に『横須賀日日新聞』を創刊。同紙は1940年8月に『神奈川日日新聞』と改題、さらに1942年2月に一県一紙構想にともなって神奈川県下の新聞が『神奈川新聞』に統合されると同時に神奈川新聞社の取締役社長に就任する。
 新聞記者として旺盛に活動するかたわら、障害者や孤児の社会的支援にも尽力し、1926年に設立した「財団法人横須賀隣人会」(会長・岩辺季貴予備海軍中将。樋口は8人の理事のうちの一人)は横須賀に起こった最初の社会事業とされる。ちなみに同会は1945年12月2日に財団法人横須賀隣人会「春光園」として再出発した後、現在も児童養護施設「春光学園」として活動し続けている。
 さらに樋口は横須賀市公郷の宗元寺遺跡の調査をしたことがきっかけとなり、朝鮮に関心を持つようになった。青年時代の彼は鳥居竜蔵の「日本人やどこから来たか」や白柳秀湖の「原日本人」を愛読し、古代における日鮮関係に思いを馳せていた。

 樋口と金達寿との関係は、金達寿が神奈川日日新聞社に就職希望の手紙を書いたことに始まる。もちろん何の伝手もない突然の売り込みだった。にもかかわらず樋口から面接をしてあげるから社に来なさいと返信があり、達寿が本社を訪れると樋口から、「手紙があれだけ書ける人なら」と言われ、その場で新聞記者に採用された。樋口はのちにコラム「同根の花」で、紹介状もなく飛び込んできた金達寿に「センチメンタリストの私は、〝義憤〟めいたものを感じ同情した」と書いているが、その裏側には以上のような樋口の経歴と関心があったと推測される。

 金達寿はその後、1943年4月にソウルに旅行した際、京城日報社に強引に就職して神奈川新聞社を辞めてしまうが、44年2月に横須賀に戻ると3月ごろには神奈川新聞社に復社した。このころ、特高は朝鮮人知識人を回顧するよう、いろいろな会社にかなり強く迫っていた。しかし樋口はこれを拒み、45年5月末の空襲で社屋が焼け落ちるまで達寿や、彼の友人でやはり社員だった張斗植を辞めさせなかった。樋口は「〝天ン邪鬼〟の私は「どうぞ公文書でご指示下さい」で柳に風で対手にしなかった」と軽く記しているが、これは当時としては相当に勇気のいる態度だっただろう。

 なお樋口は1977年12月まで神奈川新聞社の取締相談役を務めた後、引退。1980年4月14日、急性肺炎のため横須賀市の衣笠病院で死去した。享年81。著書に『砂に書く』(神奈川新聞社)、『人生の路地 第一集』(海国社)、『人生の路地・第二集』(神奈川新聞社刊)などがある。

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