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金達寿事典

富士のみえる村で(小説)
空白

 「眼の色」で登場した被差別部落民の岩村市太郎の故郷へ「私」たちが旅行したときに起こった出来事を描いたもの。『世界』1951年5月号に発表。

 「眼の色」の最後で、自分の小説をどこか中央の大きな雑誌に掲載してもらえるよう働きかけて欲しいという岩村市太郎の訴えに曖昧な返事をしたまま、「私」は電車に飛び乗って別れた。しかし彼との関係はそれで途切れたわけではなく、その後彼から、自分の家や富士山の麓にある実家に来て欲しいという手紙が届いた。
 そこで「私」は同じM・C社編集部にいた李三尚の他、尹在鶴・李経克とともに彼の家に旅行に行った。彼の家は妻の実家の離れにあったのだが、そこで「私」ははじめて彼の妻である「普通民」の秋子と出会った。「私」は彼女がまったく貧乏な一小市民失業者の平凡な女房の典型のような女性であることに驚かされた。さらに驚かされたのは、軍人の肖像と、名前を売るために部落を踏み台にしたと彼が非難していた島崎藤村の写真が彼の部屋に飾られていることだった。彼は、妻の母親である「婆さん」が外すのを許してくれないのだと釈明したが、「私」の眼には彼がそれらの写真にある種のあこがれと誇りを持っているように見えた。
 翌日、「私」たち一行は「婆さん」に別れの挨拶をしたのち、今度は岩村の故郷であるK村に向かった。故郷に近づくにつれ、岩村の表情は目に見えて穏やかに、安心した雰囲気へと変わってきた。
 実家の前まできたとき、岩村は「私」たちに、朝鮮語を使わないようにして欲しいとお願いしてきた。「私」たちはそれが意味するものを特に深く考えることなく、たんに日本人の前で彼らにわからない言葉を使うと気分を害するだろうという考えからそれを快諾した。
 しかしそれは「私」たちのまったくの誤りだった。それがわかったのは、岩村の家族が「私」たちに寄せ書きを頼んできたときだった。「私」たちが自分の名前、つまり朝鮮人としての本名を書き記すと、岩村の母と妹の顔つきが見る見るうちに変わっていった。その雰囲気に気づいた「私」は、半紙に「常に蔑視されるものは、また蔑視しようとしたがるものである/そしてこういうことにしたものは、真に蔑視さるべきである」と記し、自分の名前を書いた。
 もともと「私」たちは同じ非圧迫者として、岩村たち飛差別部落民の境遇に共感し、一種の親しみさえ覚えていた。だからこそ「私」たちは岩村の誘いに応じたのだった。しかし──
 翌朝、「私」が目を覚まして昨夜の部屋に行くと、寄せ書きがそのまま置かれていた。
 「私」は岩村の弟の啓次とともに猟銃と空気銃を持って富士山へ登ると、富士山をめがけて狂ったように銃をうち続けた。

 金達寿は「眼の色」のような出来事が実際にあったことをほのめかしているが、この小説も実際にあったことが素材になっているかもしれない。ただし現在のところ、裏付けはないけれども。
 なお「眼の色」と同じく、この小説も金達寿に原稿を依頼したのも『世界』編集部にいた塙作楽である。

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