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金達寿事典

副隊長と法務中尉(小説)
空白

 「金鎮周」と「黄雲基」という、Y市を舞台に戦中・戦後を対照的に生きた二人を、主人公の安東淳の視点から描いたもので、ほぼ実話にもとづくと推測される。『近代文学』1953年1-2月号に発表。

 金鎮周は東京にある某大学を中退後、Y市の山中で豚を飼っていたことから、「豚金」「豚金さん」と呼ばれるようになった。作家の金士亮が初めてY市を訪問した際には、大きな鵞鳥をつぶして振る舞ったこともある。彼は太平洋戦争が近づき、大勢の朝鮮人が徴用されるようになると、豚を飼うのをやめ、ある退役軍人特務少尉の老人の紹介をえて、新設された相模湾よりの武山海兵団の施設工事に徴用されてきて働いていた朝鮮人青年たちの寄宿舎に入り込んだ。彼はそこにいた2,607人の朝鮮人を扇動して、暴動を起こす計画を立てたのである。
 しかし太平洋戦争が始まった翌日、彼はその計画を実行できないまま、他の大勢の朝鮮人とともに逮捕され、1年あまりも留置場に入れられて拷問を受けた。やっとのことで釈放されると、彼は李小寧という朝鮮人青年と二人で日光の山奥に行った。そのころK新聞社に務めていた東淳が様子を見に行くと、彼らはそこに小屋を建てて朝鮮式の飴を作っていた。
 その後、1944年2月、金鎮周は山からY市に戻ってくると、李小寧をつうじて東淳から手に入れてもらった朝鮮行きのチケット2枚を手にすると、妻の三粉とともにいつの間にかいなくなってしまった。東淳は彼とともに行かなかったことをあとあとまで後悔した。
 それと入れ替わるようにY市にやってきたのが金雲基である。金鎮周と同じ大学の法科を卒業した彼は、「Y憲兵分隊特高内鮮係・補助憲兵伍長」として東淳たちの朝鮮人集落などを見回り、しかも噂によると金鎮周夫婦を探しまわっているらしいことが恐怖とともに伝わってきた。
 東淳は、自分たちの身の安全を得るために、何とかして黄雲基を自分たちの陣営に引きずり込もうと試み、それはある程度まで成功したのだが、それでも彼は、自分がどれほど朝鮮人から嫌われているかよく理解していたので、その距離が埋まることはなかった。
 こうして8月15日を迎えると、黄雲基はY市の朝鮮人から追われるようにして南朝鮮に帰っていき、その後の行方は分からなくなってしまった。のちに東淳は金鎮周と黄雲基の消息を知るのだが、戦中の行動が対照的だったように、戦後の二人の生き方も対照的だった。
 まず金鎮周は、1945年8月17日に南朝鮮の監獄から釈放され、そののち民族主義民族戦線の中央委員会に名前を連ねていたが、1946年10月に南朝鮮全土を揺るがした10月人民抗争のあとのことは伝わってこなかった。しかし南朝鮮から密航してきた朝鮮人によって、金鎮周夫婦が南朝鮮遊撃隊に入って、アメリカ軍と李承晩政権に闘っているという話を聞いた。そしてまた、黄雲基については、Y市の民団系の団体である建国促進青年同盟の団員だった尹文賛という人物から、彼は10月人民抗争を経て、南朝鮮の法務中尉になっているという話を聞いた。そしてまた、黄雲基は今なお、山の中にこもってパルチザン闘争を続けている金鎮周を追っているというのだった。

 金達寿は1941年秋ごろから金史良と交際するようになったが、この小説はそれ以後の達寿や彼の周囲にいた人々を描いており、達寿の自伝やエッセイなどに触れられている出来事も多いことから、ほとんど実話に即した物語ではないかと推測される。
 実際、登場人物のモデルを特定することは容易で、たとえば「金士亮」は作家の金史良、「安東淳」は金達寿本人、「安得淳」は金声寿(達寿の兄)、「李小寧」は張斗植(達寿の友人)で、「金鎮周」は金鎮勇という具合である。

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