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金達寿事典

古本屋の話(小説)
空白

 ゆうゆうと長い小説を書く時間を持つため、「私」が古本屋をはじめるが、あまりにもこの商売を甘く見ていたため、すぐに失敗してしまうという話。『新日本文学』1955年4月号に掲載。

 1955年2月末から5ヶ月ほど前のこと、日本名を高橋某という徐某が、ある用事で「私」を尋ねてきた。「私」は彼と話をするうち、「古本屋をやりながら、ゆうゆうと長い小説をかいてい」くことが「理想」だった、などと話をするうち、彼から、吉祥寺にある四坪ほどの広さの古本屋の店舗を譲り受けることになった。
 「私」は店舗を見まわしながら、さっそくいろいろ準備に取りかかり、また頭の中で協力してくれそうな友人を思い浮かべた。「私」は霜多正次や窪田精に手伝ってもらいながら本を集め、また自分も蔵書のほとんどを店舗に並べることにした。その間、高橋某に古書市に連れて行ってもらったが、そのセリの光景を見て度肝を抜かれ、古本屋は決して片手間にできる商売ではないと思い始める。さらに「私」はまだ鑑札がなく組合にも入っていなかったので、セリからすぐに追い出されてしまってちょっとしょげてしまう。すると高橋某が「私」に、知り合いの作家や評論家たちからいらない本を譲り受ければいいとアドバイスをもらう。
 「私」はさっそく伊藤整や中野重治、宮本顕治、それに霜多や窪田たち、いろいろな先輩や友人に電話をかけたり手紙を書いたりして本を譲ってもらったが、商売っ気のない「私」はどうしてもその値段を言うことができなかった。さらにみな、代金などどうでもいいという態度で「私」に本を譲ってくれるので、もうどうしもようもなくなってしまった。
 「私」は自然と怠けるようになり、店も寂れていった。そして12月4日に総売上日誌を見ると、もはや悠々自適に小説を書くどころか、店を維持するために働いているようなものだということに愕然とする。今や「私」は目先の原稿料のために雑文書きに追われるようになった。
 そこで「私」は意を決した。「本屋はやめよう!」。翌日、「私」は古本屋を畳んで、店舗の貸し主だったおばさんに店舗の賃貸料と店番の給与を払った。
 この5ヶ月間の原稿料を勘定してみると、12,3万円ほどあった。それが古本屋を辞めてみると、借金がちょうど12,3万円残った。「私」はこの借金のためしばらく苦労しそうだが、しかし「古本屋廃業万歳!」と、清々した気持ちになった。

 金達寿が短期間ながら古本屋を開いたが、すぐに閉店してしまったという話は、自伝『わが文学と生活』などでも語られており、ほぼ事実あったことが小説化されていると思われる。また登場人物も多くは実在の人物で、そのままの名前で登場する。
 ちなみに、神奈川近代文学館の金達寿文庫には、戦後ある時期までの書籍が少なく、とくに古い時代の単行本は数が少ない。これは1960年ごろまで達寿の生活が苦しかったことや、引っ越しのたびにどこかに行ってしまったためもあるが、おそらくこの古本屋業で手放してしまったものも多かったのではないかと推測される。

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