トップ画像

金達寿事典

恵順の願い(小説)
空白

 韓国への強制送還問題を背景に、外国人登録証の国籍の韓国への切り替えをめぐる家族内の対立や葛藤を描いた小説。婦人民主クラブの機関誌『婦人民主新聞』1952年10月12日から53年1月1日まで連載。全12回。

 朴恵順は朝鮮人高等学校の生徒だが、学校が接収されて以来、朝鮮の歴史を思うように習うことができなくなったため、時間講師として学校に来ている李元周の家に、毎週土曜の午後、友人たち6,7人とともに来ることにしていた。自宅は「朝鮮料理馬山亭」というホルモン焼きの店を経営している。多くの在日朝鮮人と同じように恵順の一家も、外国人登録証の国籍は最初、「朝鮮」だった。
 だが朝鮮戦争下の日本で、在日朝鮮人の韓国への強制送還が問題となりはじめると、店と一家の生活を守るため、彼女の父親の朴景善は継母とともに国籍を「韓国」に変え、民団に加盟してしまった。さらに彼は恵順の兄・克潤にも「韓国」籍にかえるよう、毎日のように暴力を振るった。克潤は「そんなことは、どうでもいいですよ」と言いながらもなぜか国籍を変えようとせず、無抵抗のまま殴られ続けた。克潤は非常に頭がよかったが、朝鮮人という理由で都立中学の受験に不合格になったことに大きなショックを受け、学校に行くこと自体を辞めてしまって不良グループに加わっていた。恵順はそんな克潤が国籍を変えないことを意外に思いつつ、しかし彼が朝鮮戦争や在日朝鮮人の強制送還などに反対する集会に姿を見せないことを残念に思っていた。
 1952年5月1日。のち血のメーデー事件と呼ばれるこの時のメーデーにも恵順は参加し、「アメリカ軍の朝鮮戦争からの即時撤退」や「強制送還反対」のシュプレヒコールをあげた。と、気がつくと、あちこちで警官隊が参加者たちに殴りかかりだし、人々は先を争うように逃げ出していた。恵順も懸命に逃げたが、警官隊に殴られそうになった。しかしいつの間にか、そのメーデーに参加していた克潤が彼女の危機を救った。
 そして夏休みが来た。景善はどういう理由からか、いつの間にか恵順はもちろん克潤にも国籍の切り替えについて何も言わなくなっていた。ある日、克潤が景善に国籍の切り替えについて尋ねると、彼は国籍がどうであろうが強制送還されることは何も変わらないそうだと言い捨て、二階に上がっていった。しかし階段の途中で身体をねじると、恵順に、早く寺下(の集落)に言ってみろといった。そこは集落の人々がいつも集まる、共同水道がある空き地で、恵順と克潤が着いたころにはもう多くの人々が集まっていた。彼女は、景善が「韓国」籍であるために自分が疎ましくなって自宅に戻ってきたのだと推測した。
 空き地では李元周たち学校の先生が集まり、朝鮮をめぐるいろいろな話をしていた。恵順は話に耳を傾けながら、ふと隣に立っている克潤を見た。彼がこの種の集会に出てきたのは初めてのはずだった。恵順の目に彼の横顔が、今までに見たことのない美しいものに見えた。

 1950年1月12日、韓国の李承晩大統領は駐日代表部をつうじて、「共産暴力革命を志向するなどの在日朝鮮人を強制送還する用意がある」という声明を発表し、その後まもなく米中韓のあいだで在日朝鮮人の強制送還が議論されるようになった。
 しかし反共を国是とする韓国に在日朝鮮人が強制送還されれば、死刑を免れることはない。戦後5年間の経験から、在日朝鮮人はそのことがわかりすぎるぐらい明白だったため、強制送還反対を訴えたのである。物語のなかで朴景善が「韓国」籍に切り替えた背景には、このことに対する恐怖があった。
 さらに在日朝鮮人たちは、この困難な状況のなかでも、50年6月25日に勃発した朝鮮戦争にも反対すべく、全国各地で兵器の生産や輸送を妨害するなどの活動さえ展開した。

ページのトップへ戻る
inserted by FC2 system