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金達寿事典

汽車弁(小説)
空白

 「私」と、年の離れた病弱な友人である「南」、そしてその娘である折子との恋愛関係を描いた短編小説。大澤達雄の筆名で、『新芸術』1巻2号(1941年3月)に発表。伏せ字はなし。

 「私」は現在は学生だが、入学前に1年ほど職を持っており、「南」はそこで知り合った友人である。彼は37歳で、3歳上の妻と17歳になる折子という娘がいる。南は病気をしてから仕事を辞め、現在は彼の妻が仕立の仕事をして生計を立てている。折子は実業学校を卒業後、裁縫の学校に通っている。南の妻の仕立には「私」の母親も世話になっているが、その着物を折子がある日、自宅に届けてきたついでに、わざわざ離れで寝ていた「私」を叩き起こしにきたことから、「私」は彼女がもう大人の女性であることに気づく。
 「私」はその後、3度、同じ場所の海岸で会って他愛ない会話を繰り返した。そして「私」は折子に恋をしていることや、彼女との交際の様子を、学校の友人でしょっちゅう部屋を訪れている中里に大げさに告白した。ところがまもなく南に、折子の友人である吉田を通して二人の関係が進んでいることを知られてしまう。
 「私」は南に申し訳ない気持ちになり彼の家に見舞いにもいけなくなるが、南がどう思っているかが気になって、中里に頼んで南の様子を探ってもらう。その結果、折子の態度は親として叱らねばならないが、交際それ自体を否定しているわけではなく、それどころか「私」には、仕事などを通じて多少は尊敬してさえいるということがわかった。
 この間、「私」は9月からの新学期に合わせて、東京で一人暮らしをするために引っ越しをしたが、「私」はそのことを南には伝えなかった。南は「私」の引っ越しと同じころに膀胱カタルが悪化して、入院しなければならなくなった。引っ越し後も「私」は毎週末に自宅に戻ったが、南の見舞いには行けなかった。
 しかし3度目に戻ってきたとき、「私」は無理やり中里に頼み込んで、一緒に病院に南を見舞った。南は「私」を歓迎し、残される妻子のことを思うとまだ死にたくないとこぼした。そして最後に、南は「私」に、汽車弁が急に食べたくなったから、明日買ってきてくれないかと頼む。「私」は快諾するが、東京に帰らねばならないため、「私」はそれを中里に頼んでお金を渡した。
 ところが翌週末、中里から汽車弁を買って持っていくことができなかったと告白され、「私」は事情を説明して詫びる手紙を南に宛てたが、南はその手紙を読むことなく死去してしまう。「私」は南の自宅を訪問した際、南の従兄である「徳さん」から、南が最後まで「私」に会いたがっていたことを聞かされ、大きな気持ちの負担を感じたまま南宅を辞去する。
 自宅へ帰ると中里が待っており、彼は「私」をあるカフェーに連れて行った。そこでは派手な化粧をして黒いドレスを着た折子が男の相手をして働いていた。
 その姿を見てから中里は「私」に、南に汽車弁を持っていかなかったのは申し訳ないが、結果的にはそれが「私」にとっては良かったと話をした。というのも、南はおそらく中里に、「私」と折子の結婚についてはなしをしたに違いないが、南はおそらく遊蕩の結果死んだのであり、彼女はそのような環境で育った女性だから、仮に南から最後の頼みとして、「私」と折子が一緒になってほしいと言われたら、「私」は彼に汽車弁を持っていけなかったことよりもっと大きな気持ちの負担を残すことになるんじゃないかと言うのである。
 「私」は「君の云ったこと、俺にはなにも解らなかった」と席を立ち上がり、それと同時に奥の方から折子たちの矯正が聞こえてきた。

 金達寿は1939年4月、日本大学の専門部である法文学部国文科に入学し、その年の夏に編入試験を受けて9月から同大学の芸術科の学生となった。それとともに横須賀の実家を出て東京・池袋駅西口にあったアパートに移った。「私」の経歴と重なる部分があるため、「汽車弁」はこの時期の出来事を素材にした小説と考えられる。また作中、「私」が恋愛した女性の一人に富子というカフェーのウェイトレスをやっていた女性が登場するが、実際に達寿は1937年ごろにカフェーを経営していた姉妹の妹の方に惚れられ、駆け落ちをする寸前までいった。しかし南一家や中里に具体的なモデルがあったかは不明である。

 発表誌である『新芸術』は、『芸術科』が再編成され改題されたもので、発行は同じ日本大学芸術科である。

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