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金達寿事典

傷痕(小説)
空白

 聖珉という人物に宛てて、若くして亡くなった妻を偲び、合わせて自分のこれまでの人生を振り返った書簡体の小説。未完。日本語版『朝鮮文藝』(朝鮮文藝社)1948年2月号に掲載。以下のあらすじは初出にもとづく。

 主人公の「ぼく」は29歳の青年で、3日前から三浦半島の津久井海岸にある南海ホテルにいる。K氏の後援会から彼の伝記を書いてほしいと頼まれ、その執筆に専念するための食料と費用も用意されていたので、ひとまずこのホテルを選んだのだ。
 「ぼく」にとってこの海岸は、10年以上も前に毎日のように屑拾いをしにやってきていた場所である。そのころを思いだしながら「ぼく」はまた、昨年9月29日に亡くなった妻のポクスニのことを思いだし、自分が彼女を本当に愛していたことを語りたいと聖珉に打ち明ける。
 しかしポクスニについて具体的なことは語られず、自分の子供時代から今までのことがとりとめもなく語られ、その後に川上瑛子という日本人との交際の様子とその破綻の様子が描かれたのち、未完のまま小説は終わっている。

 金達寿はこの時期、自分や家族・友人たちを素材に小説を書いており、「傷痕」もその一つである。「ぼく」の体験はほぼ事実に即しており、登場人物のモデルが誰かを推測するのも容易である。
 まず妻のポクスニは、第二次世界大戦末期に金達寿が結婚し、46年9月30日に亡くなった金福順がモデルである。また「ぼく」が手紙を宛てた「聖珉」は、やはり第二次世界大戦末期に仲間のともに作った回覧雑誌『鶏林』の同人の一人、金聖珉だと思われる。彼は戦時中に「緑旗連盟」などいわゆる「皇民化小説」を出版したが、日本の敗戦後まもなく朝鮮半島に戻り、金達寿とのつき合いは途絶えた。しかし金達寿が風の便りに聞いたところ、彼はその後、李承晩政権下で最も反共的な映画監督になったという。そのためだろうか、『金達寿小説全集』1巻に初めて収録された際には、名前が「正民」に変えられている。
 そして「K氏」は、「あの一〇月一〇日の喜びの一人であったK氏」とあることから金天海であろう。実際、1946年ごろに早くも彼の伝記の出版が企画されており、『民主朝鮮』には、金天海の自伝が『獄中十七年』の題名で民主朝鮮社から出版される予定だという広告も出ている。ただしこの本は、実際には刊行されなかったと思われる。
 さらに作中で「ぼく」が滞在した津久井海岸は下浦海岸がモデルであろう。『わがアリランの歌』によれば、金達寿は1936-39年ごろまでこの海岸にあった塵芥捨場に通い、屑拾いをしていたからだ。

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