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金達寿事典

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(1) 塵(ごみ) ※初出版
(2) 塵(ごみ) ※『民主朝鮮』版
(3) 塵芥船後記
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塵(ごみ)(小説) ※初出版
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 玄八吉という屑屋が、D町にあるD工場から出る塵芥処理の権利を首尾よく手に入れ、郷里に田を買うために一生懸命働く様子を描いた短編小説。『文芸首都』1942年3月号に金光淳の筆名で発表。伏せ字はなし。以下のあらすじは初出にもとづく。

 玄八吉は朝鮮での小作人生活を地主に見切ってもらい、「内地」に渡って2年になる。彼は屑拾いを始めてすぐ、「内地人の生活は、豊富で有り余っている」ことに気づき、捨ててありそうなものを片っ端から拾っては売るという生活をしていた。その中には窃盗にあたるものもあったが、盗みといえば近所の家の柿をもぐぐらいしか知らない彼には窃盗という観念がわからない。しかしある時、警察に捕まってしまい、しばらく留置場に入れられてしまう。その後、彼には道端にあるもののどれが捨ててあるものなのかがわからなくなってしまい、屑拾いを廃業する。
 そうこうしているうちに八吉は、「内地」の習慣や言葉を少しずつ覚えはじめ、要るものか要らないものかの判断を相手に任せられる屑買いの仕事を始める。そして間もなく彼はD町の東端にあるD工場の塵芥処理に目をとめた。
 この塵芥はD工場重役の野尻という人物が権利を持っており、船で海に積み上げて鉄くずやボロなどを選びだして捨てていた。その残りの塵芥から、さらにいろいろなものを選んで生計を立てている元漁師や婦人会、青年会などがたくさんおり、彼らは争って屑を買っていた。
 八吉は野尻からそれを独占的に買える権利がもらえたらと夢想するが、それは実は誰もが考えることであり、実際に過去、ある有力なD町の町会議員が秘密裏に野尻に働きかけてきた。しかし交渉は失敗に終わり、それが伝わると人々は、野尻はどうあっても塵芥船を現状から動かさないものだと信じてしまい、以後、野尻に交渉する者はいなかった。
 ところが幸いにも八吉はその話を知らず、自分がこうしている間にも誰かが野尻に交渉しているかもしれないと思うだけで居ても立ってもいられなくなり、彼は野尻の家を探しだして塵芥船の買いつけを頼みこんだ。そして見事、塵芥船の塵を月300円で独占的に買いとる権利を獲得したのである。
 毎日毎日、八吉と彼の妻は働きに働いた。
 そこへある日、徐民喜という、D町で協和会の幹部をしている人物が八吉を訪れ、その権利を自分に譲ってもらえないかと話を持ちかけてきた。保険の外交が本職である彼は、ある屑物問屋に勧誘に行った際、その主人から、八吉から権利を譲ってもらうよう交渉してもらえないかと頼まれていたのである。しかし屑屋の知識が皆無だった彼には塵芥船のどこに価値があるのかわからず、八吉の、儲からないです、もう止めないと駄目ですという説明を真に受けてしまった。
 しかし八吉のほうは気が気ではなく、野尻に付け届けをしたり、そのほか力になってくれそうな人を探した。そこで彼は、この小説の作者である敬泰の自宅にもやってきたのである。
 結局、もともと問屋の頼みに迷惑を感じていた民喜はあっけなく諦め、敬泰はそのことを八吉に伝えた。八吉は躍り上がって海に落ち、そのまま両手で海を激しく打ちたたきながら喜びを表した。

 金達寿が1936年秋、16歳のときに、本格的に屑屋の仕事を始めるようになった。彼が繰り返し語っているように、当時の「内地」で朝鮮人ができる仕事といえば、土木作業員か屑屋しかなかったのである。しかしもちろん、彼は屑屋になりたかったわけではなく、むしろそうならないために35年末に映画技師の仕事を辞め、屑屋の仕事をしながら夜学に通ったのである。しかし疲労のため続けることができず、半年ほどでその生活は終わった。
 『わがアリランの歌』によれば、この頃の彼は横須賀市内と三浦半島のあちこちに行っては屑を拾ってくる生活をしており、特に印象深い場所として下浦海岸を挙げている。そこはかつて、村全体のゴミ捨て場となっていたところだという。「塵(ごみ)」の具体的なモデルや時期は明示されていないが、おそらくこの時期のエピソードを中心にしたものではないかと思われる。

 筆名である「金光淳」は、実際に1939年に「創氏改名」した金達寿が日常生活で用いていた名前である。彼は状況に合わせてこの読みを「きんこう・じゅん」と「キム・グァンスン」で使い分けていた。

(ごみ)(小説) ※『民主朝鮮』版
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 上記『文芸首都』に発表した同名の小説を加筆・修正して『民主朝鮮』1947年2月号に金達寿の名前で発表したもの。あらすじは初出と基本的に変わっていないため省略し、ここでは初出との差異について述べる。

 まず冒頭部分であるが、初出では八吉が敬泰のところにやってくる場面からはじまるのに対し、『民主朝鮮』版ではその部分が完全に削除され、八吉が渡日してきた経緯を記すところから物語がはじまる。また初出では八吉は渡航証明書をもらうのに3年かかったが、『民主朝鮮』版では4年に変更されている。さらに初出で「内地人」となっていた箇所はすべて「日本人」に変更されている。
 次に八吉が屑拾いを廃業して「屑買い」に転じる場面であるが、初出では転じたことしか書かれていないのに対し、『民主朝鮮』版では彼の「屑買い」の様子がやや詳しく描写されている。
 さらにD工場の塵芥と「ひがし」について、初出ではそれらについて説明する記述が続いた後で八吉が塵芥船の権利者である野崎からその権利を買うことを思いつくのに対し、『民主朝鮮』版ではその間に八吉が、まず「ひがし」で塵芥船の塵芥を拾って分別する一人の漁師から「屑買い」をするが、不正がばれて漁師たちから袋だたきにされるというエピソードが挿入されている。
 そして最後の、野崎宅に押し掛けて権利を譲ってほしいという場面では、初出では彼の片足にぶら下がって権利が欲しいと頼んだのに対し、『民主朝鮮』版では八吉の行為に驚いた野崎が八吉をステッキで打ちまくり、その後、冷静になって傷の手入れをしてやるために八吉を家の中に入れてやるという場面で終わっている。

芥船後記(小説)
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 上記『文芸首都』に発表した「塵(ごみ)」を加筆・修正して『民主朝鮮』1947年4月号に金達寿の名前で発表した同名の小説の続き。内容は初出と基本的に同じなので省略し、初出との異同について記す。

 初出の冒頭に置かれていたが『民主朝鮮』版「塵(ごみ)」で省略されていた、敬泰のところに八吉がやってくる場面が、「塵芥船後記」の冒頭に置かれている。敬泰は初出では何者なのか記されていないが、「塵芥船後記」では物語の当時、日本名を使っていた新聞記者であり、警察に顔の利く人物と設定されており、このため彼のもとにいろいろな朝鮮人が相談に訪れるが、八吉もまたその一人だったと説明されている。彼らは皆善良な、一刻も早くお金を貯めて故郷に戻りたい願う人ばかりで、敬泰は生涯をかけてこれらの人々のことを書きつけておこうと念願している。
 この部分が挿入された後に、初出と同じく、八吉が野崎から「ひがし」の権利を買った話が続くのだが、初出では権利金が300円だったのに対して「塵芥船後記」では500円に上がっている。また八吉の妻の名前が「塵芥船後記」で「スニイ」(??)と記されているが、これは日本名の「花子」と同じく、ありふれた女性名の例として挙げられる名前である。
 この後の物語の展開は初出と同様であるが、初出では保険外交員でかつ協和会の幹事である徐民喜がなぜ敬泰と出会った途端に自分の負けを認めるのか不明だったのに対し、「塵芥船後記」では敬泰が警察に顔が利く人物であることが説明されていることと、徐民喜が協和会の幹事であるという設定が削除されているため、物語の展開が自然なものになっている。

 金達寿はこの後、『民主朝鮮』版の2作を合わせて「塵芥(ごみ)」というタイトルを付け、これを最終稿とした。「後裔の街」や「玄海灘」など長編に比べて、彼の短編は同時代の評論家には全体的に評価が低かったが、「塵芥(ごみ)」は比較的成功していると評価されており、全集やアンソロジーなどに何度も収録されている。

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