トップ画像

金達寿事典

公僕異聞(小説)
空白

 金達寿と等身大の主人公の「私」が、4-5年ほど前から住んでいる「東京都N区中之町」で2年半ほど前に知り合った、「和田次郎太」という人物をめぐって展開される物語。『現実と文学』46号(1965年1月号)に発表。

 「私」が4-5年前に引っ越してきた「東京都N区中之町」は、東京都とはいえまだまだ古い武蔵野の原野の面影を残している地域であり、「私」はこの地域がはるか昔には新羅郡といっていたところであることが気に入っている。しかし近年の東京近郊の開発にともなって引っ越してくる者が多く、彼らが住宅を建てるようになり、地価はあっという間に10倍にもなった。そこで地元の農家や地主たちは、地域の特産物である大根などの栽培をやめ、さらに地価を上げるべく区画整理をして道路を立派に敷いた。ところが人や自動車などの往来によってたちまち使いつぶされ、雨が降るとぬかるみができるようになってしまった。けれども地元の議員たちは選挙のときはこの街を訪れるけれども普段は見向きもせず、誰も道路を補修しようという者がなかった。そこへ立ち上がったのが和田次郎太なる人物であった。
 まだ30歳ぐらいの、背の高い彼は、「公僕 和田次郎太」と書かれたのぼりを古自転車に掲げ、スコップとクワを使って道路を修繕していた。「私」は日課の散歩中にその姿を見つけて、「区役所からですか」と尋ねたものの、そんな筈がないと、すぐに心のなかで否定し、さらにそう否定してしまったことにいらだってしまう。「私」は自宅に戻ってから「公僕」という単語を辞書で引き、どうしてこの国では辞書に書かれてあるのと正反対に、人民の方が彼らに奉仕しているのかと疑う。
 「私」は彼に興味を持ち、翌日もまた道路修繕している彼を見つけると、彼に近づいてそんなことをして選挙にでも出るつもりなのかと尋ねる。すると彼からは、あと2年あるからと曖昧な返事が返ってきた。
 さらに翌日も「私」は和田が道路を修繕している姿を見かけ、また彼も「私」が在日朝鮮人の小説家だということをどこかで調べてきたらしかった。「私」は彼にこんなことをする意図がどこにあるのかと尋ねると、彼は、みんなに黙っていてくださいよと言い、さらに政党なら自民党でも共産党でも同じだと言った上で、自分もかつて共産党に近づいたときがあり、おかげで今、こうして「酬いられることのない人民への献身」を行うことができているのだと語った。そして区会議員の報酬が1ヶ月10万円以上していることなどを話し、へへ…と笑いながらまた道路修繕をはじめた。
 その夜、「私」は家族と和田の話になり、「私」の妻が和田の奥さんが「向こうのバスどおりのところにあるお寺の保育園の保母さん」だと語り、ああいうことをしてくれるのは私たちにとっては有り難いと言った。選挙の話ができない「私」は仕方なく苦笑した。
 そして5月、新緑の季節へとかわった。和田は日曜日こそ休むものの、その他の日は欠かさず出てきては働き続けた。やがて町の人は彼を「公僕さん」と親しみを込めて呼ぶようになった。それどころか自分の家の近くの道路の補修もして欲しいと頼みにくるものまで出てきた。
 その間も「私」と和田とは親密になり、和田は「私」が選挙権のない在日朝鮮人だという安心感からか、何かと相談するようになった。

 そんなある日、「私」は彼に自宅の場所を尋ね、お互いに行き来しあわないかと持ちかけた。「私」は作家としての好奇心から、いずれ彼を小説に書きたいと思ったのだ。すると彼は自宅の場所を説明し、埼玉県の高麗神社の近くが実家だと言った。そこで「私」は以前に自分が書いた『朝鮮』という新書版の本の中で、武蔵野における、いわゆる「帰化人」について書いたとき、高麗家から分かれた苗字の一つに「和田」があると記していたことを思いだした。もちろん和田次郎太が、その「和田」と関係があるという証拠は何もないが、「私」は彼を「帰化人の後裔」と思うことで親しみをもった。

 また別の、雨が降る夜。和田が「私」宅を尋ねてきた。妻が持ってきたビールを飲みながら、「私」は和田に、あなたのことをもっと聞かせて欲しいとうながすと、和田もそう思いまた相談に乗ってもらおうと思ってやって来たのだと応えた。
 彼が語るところによれば、彼は農家の三男坊として生まれ、父は村長を何期も務めた人物だった。十町歩ほどの田畑を持っていたが、戦後の土地改革などで1町歩しか残らず、それを長男と次男が継ぐと、次郎太は町の近くにあった村の水利組合事務所に勤めることになった。そこで彼は町のある文化サークルに入り、久木元一という、東京の大学に通っていた若い教授で共産党員のインテリと知り合いになったことから、自分も党員になってみようかと思った。そのころ党内では、徳田球一の「酬いられることのない人民への献身」や「たたかいは人民の信頼のもとに」といったスローガンが盛んに流通していたのだが、しかしそれにしては町の人々の間で共産党の評判があまり良くないことが気がかりになり、彼はその疑問を解決してから入党しようと考えた。だが党員の誰に尋ねても納得する理由を見つけることはできず、また50年問題の最中だったこともあって入党しないまま過ぎてしまった。
 和田はその後も「酬いられることのない人民への献身」について考えつづけたが、どうすればそれを実践したことになるかわからないまま時が過ぎた。そのうち彼は地方議会に興味を持ちはじめ、しかも議員の給与や利権が一般のそれにくらべてはるかに大きいことを知ったことから、今度は市議会議員になろうかと思うようになった。しかし地方議会は地縁や血縁などが複雑に絡み合って新参者が入る余地はありそうもなかった。だが彼は諦めず、この地方の住民たちが個々バラバラに暮らし、選挙権を持ちながら地方議員に何の関心もないことに注目し、ここに「酬いられることのない人民への献身」を持って入ればよいのではないかと考えるようになった。彼はそれら互いに無関心な住民たちをつうじて「酬いられることのある人民への献身」をする方向へと、いわば「転向」したのである。こうして和田は道路の修繕をつうじて本当の「公僕」というものになり、「酬いられることのない人民への献身」には必ず酬いられる日が来ることを証明しようと考えたのだ。
 和田はその後も黙々と道路を修繕しつづけ、やがて町の人々も好意的に彼に接し、応援するようになる。そして2年後の区議会議員選挙が近づくと、現職の議員や前回落選して雪辱をはらそうとしている候補者たちは、和田が一種の有名人になっていることが気になりだして、立候補する気なのかどうか調査をはじめ、また自陣に取り込もうとするなどの画策を行いはじめる。しかし和田はどこの党にも属することなく選挙に立候補した。「私」は和田に頼まれるままのぼりの文字を新しく書いたり、ポスターをつくってやるなど、何かと裏から応援するようになった。町の人びとは和田の立候補に意表をつかれたものの、彼の道路修繕にそういう魂胆があったからといって自分たちの損になるものでもないため、態度が変わるということはなかった。
 そして投票日。「私」は和田に票が集まるか不安になったものの、翌朝になって彼の妻から、電話で彼が当選したことを伝えられた。「私」はやれやれと思ったが、今度は彼が「報酬十万円以上の区議会議員」になったことを考え、今までのことが嘘のように落胆してしまう。「私」はもう彼と関わるのはこれで終わりだと思い、挨拶に来た和田夫婦に対して冷淡な応対をする。
 そしてまた青葉の茂る5月がやってきた。「私」が、もう道路をなおしてくれる者は誰もいないのだと思いながら日課の散歩をしていると、「公僕 和田次郎太」と書かれた見覚えのあるのぼりが目に入った。和田は側溝のドブ掃除をしながら「私」に、議員になったもののやはり道路を見ると放っておけず、これからも区議会のない日は今までどおり道路をなおし続けると言った。「私」は何が何だかわからなくなったが、そのかわりに何かを新たにわかったような気がして、「うむ」と唸ったままそこに立ちつくした。

 金達寿は1958年に「朴達の裁判」という小説を書いているが、これはその続きにあたるものとして構想された。また彼はべつのところでは、権力者はみな、いつも権力に執着してそれに批判的な文学者を抑圧せねばならないと考えるが、それはそのような人を選ぶ、そのような人が選ばれるという関係に問題があるのではないか、だから「選ぶ」「選ばれる」という関係が変われば「選ばれる」人間の意識が変わるのではないかと思い、それがモチーフとなってこの小説を書いたのだという。
 しかし平野謙が一定の評価を見せる時評を書いた程度で、ほとんどは日本共産党批判・官僚主義批判を、非常にまずい形で描いていると否定的なものが多かった。のみならず、この小説の発表媒体である『現実と文学』の一般会員から、このような反動的な小説はけしからんとか、あるいは金達寿がこんな小説を書いたことをどう受けとめたらよいかととまどう意見が編集部や同人に寄せられ、『現実と文学』49号では西野辰吉・小原元・霜多正次が座談会を開いた。

ページのトップへ戻る
inserted by FC2 system