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金達寿事典

眼の色(小説)
空白

 朝鮮人の雑誌M・Cの編集部に小説を送ってきた岩村作太郎という人物をめぐる物語。『新日本文学』1950年12月号に発表。

 M・Cという「朝連の組織とむすびついて私たちが新しい朝鮮を日本に紹介するということに重点をおいた特殊な総合雑誌」の編集委員の一人である「私」がある日、M・C社の編集部を訪れた際、同じ編集委員の李三尚の机の上に分厚い投稿原稿があるのに気づいた。
 三尚に尋ねると、君が読んで彼にこの原稿を返してやってほしいと頼まれる。「私」はそんな役目をするのは嫌だと思いつつ、彼──岩村市太郎の原稿を読んでいた。それは「被差別部落民」(小説中では「非差別部落民」と表記)として生まれた彼が様々な困難にまみれながら、あるとき「被差別部落民」でない女性と恋愛関係になり、そしてその結婚をめぐっての身分的差別に対するあらがいを主題にした小説だった。明らかに作者自身のことを書いただろうこの小説の出来事に、「私」は自分の体験に照らし合わせて打たれるものを感じたが、しかし同時にこの小説は深刻な事実に負けているがゆえに失敗作だと思う。「私」が三尚にそのことを伝えると、彼は岩村に原稿を返すことにした。
 その後、「私」と三尚は、M・Cの経営維持のためのカンパをしてもらうべく、10日ほどかけて東海・中部・北陸地方の朝連をまわることになった。そこで三尚は「私」に、その後また送られてきた岩村の原稿を渡そうとするが、「私」は拒絶して電車の窓から遠くの景色に目をやった。
 「私」たちが最初に向かったのは岩村の住む東海地方のH市だった。「私」たちは朝連を訪れ、岩村のことを話すと、委員長の鄭は彼を知っていて、黄圭植が彼と特に親しいから明朝、圭植を呼ぼうということになった。
 翌朝、「私」たちのところに圭植がやって来た。岩村に会いたい旨を伝えると、圭植はすぐに彼を呼びに走り、またすぐに岩村を連れて戻ってきた。岩村は挨拶もせず、怒りをこらえるような今にも泣き出しそうな顔をして「私」たちをじっと見ていた。
 「私」たちは圭植と岩村に食事を勧めながら自分たちも食べ、社交辞令的に彼の小説を島崎藤村の『破戒』の名前を挙げて感想を述べはじめた。すると岩村は『破戒』をつまらないものだ、藤村はあれを踏み台にして自分の優越をこころみているのだと述べた。
 岩村は「私」たちに、朝鮮人は独立すれば差別からも解放されるし、結婚するにしても朝鮮人だと知ってもらった上で結婚できるが、自分たち「被差別部落民」は独立することさえできないし、素性を知ってもらった上で結婚することなどできない、そのことをわかってくれるのは圭植だけだとまくし立てた。
 すると三尚が、しかしあなたは日本共産党の党員でしょうと口を切った。岩村は、党員だからといって地区の人々に差別的な眼の色がないわけではない、自分たちにとってはこの「眼の色」の問題こそが、革命よりも先決問題なのだと応えた。「私」は、間違っているところは間違っていることとしながら、彼の言っていることの意味がよくわかると思った。
 しばし沈黙が流れたのち、岩村は三尚が手紙とともに返した原稿を取りだした。そしてこれを中央の雑誌に発表してもらえるようにして欲しいと訴えた。「私」はこの地方の文学グループの雑誌、たとえば『東海文海』という雑誌にでも発表して、それから徐々に中央に認めてもらえるようにすればいいのではないかと言った。すると岩村は、やはりあそこも自分を色眼鏡で見ているから読んでくれないし、自分もこんな地方の雑誌に出したくない、中央の雑誌に発表して彼らの目の前に堂々と出してやりたいと言った。さらに岩村が、「被差別部落民」が登場する小説の一節を暗唱するに及び、「私」はどうにも救われないものを感じた。「私」は自分の体験に照らし合わせてよく理解できる、しかし自分はそれを忘れることができたからこそ今まで生きてこられたのに、彼は…… 「私」は岩村の原稿をM・Cに掲載しようと決心し、そのことを伝えると、急に彼の顔が晴れ上がった。
 岩村が、勤めている小学校での会議にどうしても出席しなければならないと帰ったあと、残った「私」たちは黙ったままだったが、やがて圭植が口を開き、「私」たちは彼から岩村との関係やこの地方の被差別部落民について話を聞いた。
 その後、「私」と三尚は岩村の原稿を抱えたまま予定の旅行をつづけた。しかし全体的に朝鮮人の生活が窮迫していたこともあり、この旅行は失敗に終わった。二人とも岩村の原稿のことは何も話さず、東京に戻ってきた。「私」が横須賀の自宅に戻ると、岩村から分厚い封書の手紙が届いていた。自分はこの小説によって「破戒」するのだから、ぜひ中央の雑誌への掲載をお願いしたいという内容だった。「私」はとんでもないことだと思い、M・Cに掲載してやろうと思った。しかしそれは叶わなかった。旅行から帰ってきて3日後の9月8日、朝連が強制解散させられ、M・Cも停刊状態になってしまったからだった。岩村からは何度も手紙が送られてきたが、「私」たちは返事のしようがなく、何も書かなかった。
 そしてS・N・Bの第5回大会の日。「私」はそこで再び岩村に出会った。彼は「私」を見つけるや否や、自分は今日小学校を首になった、それでお金も必要なので、すぐ「私」に原稿の掲載をお願いすべく駆けつけたのだとまくし立てた。「私」はある恐怖に打たれつつ、彼とともに会場に入っていった。会場ではK氏が「批評の任務」という報告をしていた。と、岩村が急に独り言を言い始めた。国家公務員が何だ、自分はこれから党員として闘っていくという内容だった。「私」はそこではじめて、彼にとっては国家公務員というものが、「差別という不当な眼の色の下にある彼が、その人間的な唯一の自尊心をつないでいたものの名称ではなかったか」ということがわかった。
 大会が終わり、参加者が会場をあとにしはじめた。「私」も木田という人物と一緒に駅まで歩きはじめた。駅のホームで岩村は「私」に、原稿を中央の雑誌に掲載してもらうという約束をこの場でどうしてももらいたい、そうでなければ妻にも首を切られたことを話せないと詰め寄った。「私」は応えることなく、さっと電車に飛び込んだ。

 この小説は、主人公の「私」をはじめ、イニシャルで記された雑誌などについても、それを特定するのは容易である。そのためこの小説の「私」の考えが金達寿本人の考えと考えられてしまい、「被差別部落」の活動家や団体から、この小説の差別性を糾弾する手紙が新日本文学会に送られた。これらの抗議に対して達寿は「私」はあくまでも作中人物であり、また「私」の「被差別部落」に対する知識や考えも小説上の創作であって、作者本人とは区別するべきであると反論した。

 なお達寿は佐藤静夫から、この小説によって東海地方の文学サークル「東海新文学」が非常な迷惑をこうむっているという話を聞いて驚き、同誌に謝罪の文章を掲載している。達寿は「眼の色」があった実際の土地から読者の目を逸らすために「東海道線H市」を設定したのだが、そのために「東海新文学」の会員が「被差別部落民」を差別しているかのように受け取られてしまったのだという。

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