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金達寿事典

泣き面相(小説)
空白

 しじゅう泣いているような顔をした、元警官の加木庄吉をめぐる短編。『別冊文藝春秋』38号(1954年2月)に発表。

 「私」が加木庄吉と最初に会ったのは、「私」の家で開かれている「──文学会地域班」の会合に、メンバーの一人・石井守雄が彼を連れてやって来たときだった。「私」は彼を一目見て、彼が「泣き面相」をしていると思った。
 会合の後、7,8人の参加者の多くが帰宅するなか、加木と石井は部屋に残っていた。しばらく沈黙があったのち、加木は小説を書く資格について「私」に尋ね、それについて「私」が話をしていると、石井が加木を「しばらく前まで警視庁の予備隊員で警察官だった」と紹介した。石井によれば加木は、「橋本金二が警官たちに殺された」「このまえ」の「デモ」のあと、一度自殺を図り、その後パン工場で働いているのだという。「私」は話を聞きながら、にわかに信じられなかった。そして「私」は加木に、ゴーリキーの『私の大学』を貸して送りだしてやった。
 「私」はそれで加木のことは忘れてしまったが、20日ぐらいしたある夜、何の前触れもなく加木が「私」の家にやってきた。自分が書いた「自殺」という題名の小説を読んで欲しいという。「私」は加木を待たせたまま、その場で読みはじめた。
 「自殺」は作者である彼自身が警官になってから「自殺」するまでの経緯を書いた小説らしい。ある興味にひかれて「私」が読み進めていると、「鄭」という朝鮮人が登場し、しかも彼は主人公の人生の転機に決定的な役割を果たしていた。「私」がこの人物について尋ねると加木は、彼の本名は「李炳太」で、加木の叔母の家に下宿をしていたトラック運転手だという。李と加木はいつとなしに知り合い、議論するような間柄になったが、李はあるとき、警察官をしていた彼に、「警察官とは支配者の番犬ではないですか!」と言った。ところが驚いたことに、加木はこの一言ですっかり参ってしまったのである。
 加木はそれから間もなく李から社会主義関係の本を読んだり会合に出るようになったばかりか、自分の下宿の部屋にレーニンや毛沢東の写真を飾ったりした。そしてその写真の下で、彼は警察官の昇進試験の勉強をしたのである。
 「橋本金二の殺された都条例デモ」があったのはこの頃である。多くの警官と同様、加木もまた労働者たちの鎮圧にかり出された。彼は内心、労働者たちが早く解散してくれることを祈ったが、その前に鎮圧を命じる号令が掛かった。加木も小競り合いに参加するため数歩を駆けたが、しかしそこで頭がくらくらして立ち止まってしまった。
 その事件から間もなく、加木は警視庁から馘首を言い渡された。「赤」だというのがその理由だった。
 こうして加木の小説「自殺」は、「あこがれていた警察官・警視庁予備隊員となったことからはじまって、李炳太を知ってからは、それが反動的支配者の「番犬」にすぎないものであることに気づき、そしてこれを「橋本金二の殺された」デモ事件へと結びつけてもり上げ、強調した回想がおこなわれ、──夜なか女のところから抜けでて、公園へ向って歩きながらアドルムをどんどん口中へおしこんで「自殺」をする」という筋書きになっているのだった。
 しかし「私」は、彼が自殺を図った真の動機は、こうしたところにではなく別な、彼自身も気づかない些細なところにあったのではないかと推測した。加木は警察を馘首されたのち、故郷の父親のところに帰ったが、身の置き所がないためふたたび東京に戻って、ある漬物屋に住み込みで働くことになった。するとあるとき、加木が漬け物樽を洗っていると、一人の警官が声をかけてきた。川村というその警官は警視庁予備隊員時代の同僚で、配置換えになって最近ここに来たのだという。川村たちが去ったあと、加木は放心し、樽を洗い続けることをやめてしまった。「私」はこの川村との邂逅こそが彼の自殺の直接的な動機だろうと思った。
 小説を読み終えた「私」は、加木の小説を「──文学」に推薦して掲載してもらうことはできるだろうと思い、それによって彼が自信をもってこの先を生きてくれるならと思い、修正していく作業に協力することを申し出た。修正箇所の指示を出しながら、「私」は彼に近況を尋ねた。彼はパン工場はやめて別のパン工場に移ったということだった。その後、加木は「私」のところにちょくちょく来るようになり、見違えるように明るくなっていった。
 そして1952年5月1日の、のちに「血のメーデー事件」と呼ばれるメーデーの日。「私」が参加していたところ、不意にデモ隊が警官隊と衝突した。群衆は散りにじりになり「私」も懸命に逃げた。と、「私」はそこに加木の姿を見た。「メーデー万歳! 弾圧反対! ──労組」と書かれたプラカードを両手で持ち、じっと動かずにいるのだった。
 「私」はそれから2,3日して、加木が検束されたことを聞いた。抵抗したので半殺しのような目にあったということだった。

 金達寿の小説には警官がよく登場する、とは佐久積「警察官の人間像」の冒頭の言葉だが、この時期の達寿の小説にはたしかに、警官だけでなく、李承晩政権に忠誠を尽くす反共主義的青年や「親日派」など、権力側の人間が主人公かそれに近い重要な役割を持った人物として登場する。これは達寿が、社会全体をとらえるためには権力側の人間も描かなくてはならないと考えて試行錯誤するなか、こうした人物に焦点を当てて書いたのである。しかし小説中にそうした人物を登場させたからといって社会全体を書いたことにはならないことは明白で、「玄海灘」を除くこの時期の小説の多くは、同時代的にもほとんど評価されていない。「多元的視点」を確立させようとする達寿の苦悩が伺える。
 ちなみに作中で言及される「橋本金二の殺された都条例デモ」とは、1949年5月30日、東京都庁舎周辺で公安条例反対デモがおこなわれ、警官隊との小競り合いが繰りひろげられるなか、庁舎から都電や都営バス従業員の組合である東京交通労組の橋本金二が転落死した事件を指している。橋本は当時25歳、都電の柳島営業所(江東区)で車掌をしていた。橋本はその夜に死亡し、親族や社会党国会議員、交労組幹部、検察官などの立ち会いのもと検死がおこなわれた。結果は肝臓破裂による失血死だった。

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