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金達寿事典

日本にのこす登録証──呉成吉君の帰国準備(小説)
空白

 日本に密航してきた呉成吉という朝鮮人が、帰国事業で北朝鮮に帰る前に「私」を訪問して、日本での生活や外国人登録証にまつわる話を語って聞かせたもの。『別冊週刊朝日』1959年11月1日号に発表。

 ある日、「私」の自宅に、呉成吉という25,6歳ぐらいの朝鮮人が訪問してきた。
 「私」は彼を応接間に通したが、彼は下を向いたまま話をしない。そこで「私」から、近ごろの話題である帰国船の第一船について語ると、彼はようやく、自分はその船には乗れないかも知れないが、第2船か第3船には乗れると思うと話しはじめた。そこで「私」は、彼が日本生まれの在日朝鮮人二世ではなく、自分と同郷である馬山出身の訛りで話をしていることに気づいた。
 彼は今年の春にH大の夜学を卒業し、現在はC県F市にある〝同胞〟の運送店で、砂利運びのトラックの「人夫」をしているのだという。ある日のこと、彼がいつものように、砂利を摘んで走るトラックの上に乗ってぼんやりしていたところ、道路脇から急にオート三輪が飛び出してきて、トラックと衝突してしまった。そしてそのはずみで彼は積んであった砂利の山に投げ出されてしまい、突き刺していたスコップの枝に腰を打ちつけてしまった。
 白バイや救急車が駆けつけ、現場検証をしながら彼に大丈夫かと声をかけたところ、彼は反射的にがばっと起きあがり、そのまま一目散に逃げ去ってしまった。しかしそうして逃げたことで何か疑われるかも知れないと思い直し、事故現場まで戻って巡査に無事を告げた。
 「私」は彼がなぜ逃げたかすぐにわかった。彼は密航者で、外国人登録証を持っていないと思ったのである。たしかに彼は密航者だったが、実際には外国人登録証を持っていた。けれどもクセで巡査の顔を見ると今でも逃げ出してしまうのだという。
 そして呉成吉は、日本を去る前に誰かにこの外国人登録証について話を聞いてもらいたいと思い、「私」を訪ねたことを打ち明けた。

 呉成吉の生家は馬山の、ちょっとした山林地主だったが、父親・呉陽沢は植民地時代、馬山の監獄にとらえられていた。8・15とともに解放されたが、しかし間もなくまたもや監獄に連れ戻され、さらに朝鮮戦争勃発と同時に他の政治・思想犯とともに山中に生き埋めにされてしまった。
 こうして彼の一家は「赤色家族」と言われたが、山林地主だったため生活には困らなかった。しかし父親が殺され、そのショックで母親も亡くなってしまうと、彼は朝鮮戦争停戦とほとんど同時の1953年7月ごろ、日本で暮らしている叔父を頼って日本に密航してきた。
 彼は植民地時代、小学5年生まで日本語を学んでいたが、その後の生活ですっかり忘れてしまっていた。それでも幸運にも捕まることなく、電車に乗って東海道線沿線のSに住んでいる叔父・呉陽達に会うことができた。
 その頃、呉陽達は市内の「同胞」相手に小さな洗濯屋を営んでおり、もちろん呉成吉もすこしでも手伝うべき筋合いではあったが、外国人登録証を持たない彼はうかつに外出することもできず、家の中でじっとしていなければならなかった。そのうち、呉陽達はどこからか他人名義の外国人登録証、いわゆるユウレイ登録証を買い、これでもないよりはマシだと呉成吉に手渡した。本来の持ち主である李在植という人物の写真を見ると、自分と少しも似ていなかったが、ないよりはマシと彼も持ち歩くことにした。それを手に入れるのに呉陽達は2万円を使ったということだった。
 彼は最初はビクビクしながら町中を歩いたが、幸い巡査に呼び止められることもなく、1年を過ぎるころには洗濯屋を手伝いながら、日本語もだんだんとうまくなっていった。彼は叔父を手伝いながら、できれば東京に出て夜学に入りたいと考えるようになった。
 ちょうどその頃、地元の大学であるS大学で「徴兵反対・学徒不戦の誓い」の集まりがあるということを知り、興味本位で見に行った。そこで日本共産党の細胞の学生からいろいろなビラをもらい、また演説を聴いて、大きく感動せずにはいられなかった。
 そして夜、自転車で帰っていると、一人の巡査に出会った。彼は何気なくすれ違えばよかったのだが、慌ててしまい、そのうち巡査に呼び止められ、反射的に逃げてしまった。しかし非常警戒に引っかかって間もなく捕まり、交番に引っぱられた。交番では共産党のビラを見られたり外国人登録証を見ていくつか質問されたが、彼は父親の名前を間違えてしまった。
 その後、彼は別の若い巡査に警察署の方に引っぱられ、いろいろ尋問されたが、その巡査は彼を共産党のレポーターか何かだと思っており、外国人登録証については何も追求してこなかった。それがわかると彼は急に気が軽くなり、共産党と関係がないことを主張して、始末書を書いて自宅に戻ることができた。
 こうして彼はすんでのところで大村収容所行きを逃れたが、さらに大きな危機がやってきた。それは二年ごとに行われる登録証の切り替えのため、市役所に行かねばならないということだった。彼は酒を飲み、ほとんど自棄になって、最終日の受けつけ締切5分前というところで、窓口に向かった。職員は写真についていろいろ尋ねてきたが、彼は怒ったような口調で切り替えを要求し、何とかこの危機を乗り切ることができた。彼が役所から出てくると、表で待っていた叔母は歓喜の声をあげて泣きだした。

 ここまで話を聞いて、「私」は市役所の職員がユウレイ登録証だとわかって、見て見ぬ振りをしてくれたのだということがわかった。呉成吉は同意し、もう一人の巡査もそうだったと言った。
 そして彼は、自分は思い出がつきまとったこの登録証だけを日本に残して、もう1月もすれば帰国する、そのことを話に来たのだといい、席を辞した。「私」は、「あなたのそのお心持はよくわかります」と応え、手を握って彼を見送った。

 題材からわかるように、この小説は1959年にはじまった北朝鮮への帰国事業を物語の背景としている。金達寿はこのあとも帰国事業をテーマにした小説をいくつか書いており、「日本にのこす登録証」はその最初のものと位置づけられる。
 副題は単行本収録時に削除され、「日本にのこす登録証」に変更された。
 ちなみに、高柳俊男の研究(「渡日初期の尹学準」)によれば、登録証をめぐって呉成吉が体験したことは尹学準のそれとほぼ一致しているという。ただし尹学準は呉成吉と違って帰国せず、のち、『季刊三千里』編集委員を務めた。

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