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金達寿事典

青春会議(小説)
空白

 民族的偏見に対する復讐のために日本人女性に自分を愛させようとする朝鮮人青年の話。在日本朝鮮民主青年同盟の機関誌『青年会議』1948年9月号から12月号まで2回にわたって連載されるが未完。

 韓永俊は敗戦後、得意の語学力を生かして「英語案内社」という小さな会社を立ち上げた朝鮮人青年である。第八軍司令部の近くのビルに事務所をかまえるこの会社は、いわば英語の「代書業者」であるが、場合によっては通訳や相手方との交渉にまで立ち会うなどのサービスと、彼が朝鮮人であるということからある種の好意をもってむかえられ、今ではその方面では相当に知られていた。彼はこの英語を、15歳の時に給仕として働いた大使館で覚えたのだった。
 ある朝、永俊が事務所に行くために支度をして下宿を出ると、玄関前に湯川数子が立っていた。彼女は「重大な話」をするために永俊を訪問したのだが、永俊はいち早くそれに感づいて彼女に話しかけ、彼女を送りつつ事務所に向かった。
 事務所に着くと、彼の机の上に赤いカーネーションが一輪、飾られていた。事務員の相川白子が彼のために飾ったものだった。「そのカーネーションをお好きでしょうか? 先生の部屋に飾りに行ってもいいでしょうか」と尋ねる相川に、永俊はとっさに返事し、意味もない笑い声を出した。彼なりの防御心だった。
 永俊は相川を自室に呼び、僕のことを好きになってはいけませんよ、僕には何人も恋人がいるのだからと言うと、相川は「ハイ」とだけ返事をして出ていった。永俊は激しい自己嫌悪を覚え、そのまま朝連に務める山岸克江に電話をかけ、合う約束をして事務所をあとにした。
 克江も永俊の数多い恋人の一人だったが、彼にとって彼女は他の女性とは違っていた。というのも彼女は彼にとって、いわば復讐の相手だったからだ。
 戦時中、朝鮮人は徴用されて日本各地で強制労働を強いられていたが、永俊たちも朝から晩まで防空壕を掘り続けさせられた。ある時、彼らが防空壕を掘っていると「女子挺身隊」の若い女性たちが入ってきた。彼女たちは奥に永俊たちがいることに気づかず、防空壕を掘ったのが「朝鮮の人」たちであること、彼らの防空壕掘りは優秀で日本人の男はすぐに参ってしまうことなどを話した。すると一人が、そんなに優秀なら自分も雇って家の横に掘ってもらおうか、でも朝鮮人でもやっぱり米のご飯を食べるのだろう、それなら自分の家には米がないから駄目だと言った。その瞬間、永俊は頭に血が上るのを感じ、そんなことを言ったやつの顔を見ようと覗いた。それが山岸克江だったのだ。彼女たちは最後まで永俊たちの存在に気づくことなく、やがて豪から出ていった。
 こうして永俊は克江を恋人にしてやろう、彼女に自分を愛させるようにしてやろうと決意した。そしてそれは成功したが、克江は永俊があの話を聞いていたことは知らなかったし、一緒に豪の奥にいた仲間の朝鮮人たちも克江があの話をした女性だとは知らなかった。
 永俊と克江は喫茶店で待ち合わせた。永俊も克江も言いたいことはあったが、まずは克江から話しはじめた。それは永俊と別れて彼の友人である白三達と結婚するというものだった。これに対して永俊は、前日に三達から話を聞いていたこと、そして克江自身の幸福のためにその結婚には反対だと述べた。

 金達寿はこの小説を長編として構想して書きだしたが、雑誌が廃刊してしまったため中断を余儀なくされたという。また『金達寿小説全集』1巻にはこの小説は「崔永俊の抗議」と改題されて集録されている。柏原成光の解題によれば、連載中断後、発表分を書きなおすとともにタイトルを「崔永俊の抗議」に変更して新しく発表するつもりだったが、結果的にどこにも発表されることなく生原稿のままだったという。この生原稿は現在、神奈川近代文学館の金達寿文庫に保管されている。
 なお同解題では「崔永俊の抗議」の初出は『青年会議』1948年9月号と記されているが、実際には9月号と12月号の2回にわたって連載されている。また達寿の説明では『青年会議』は2号で廃刊したように思えるが、朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成〈戦後編〉第9巻』には同誌が8号まで収められているため、廃刊によって連載が中断したわけではないようだ。
 この時期の達寿は自分や家族、友人たちの体験を素材にした小説を書いているが、この小説の直接的なモデルはいないようだ。のちに彼は野間宏との対談で、被差別部落の人々が被差別部落の者でない女性を次々にものにしていくという内容の、土方鉄のある小説を面白いと思ったことに触れ、自分も同じ発想で現状を諷刺する小説が書けないかと考えたことがあり、それで書いたのが「青春会議」だったと述べている。

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