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金達寿事典

前夜の章(小説)
空白

 Y市で起こった朝鮮人小学校閉鎖をめぐる顛末を描いた小説。『中央公論』1952年4月号に発表。

 1949年10月19日に朝連が強制解散処分を受けて解体されてから約40日後。GHQと日本政府は朝鮮人学童や生徒たちに日本の学校で学ばせるべく、全国各地の朝鮮人学校を解体するよう指令していた。これに対し、全国各地で激しい教育闘争が展開されていたが、Y市でも元朝連支部委員長の韓元道や安得淳・東淳兄弟などを中心に、地元の朝鮮人たちが抵抗運動を行っていた。ところがついにある日、数百名の武装警官がいきなり小学校にやってきて、教室の入り口や窓に板を打ち付け、校舎を閉鎖してしまった。
 当然この処置に抗議すべく、安得淳・東淳ら数名が代表者となり(万一の事態に備えて韓元道はこの代表団から外れた)、市役所と警察署に行くことになった。東淳は市役所に行くグループに加えられた。市役所を訪問したグループが今回の事態について抗議すると、それに応対した木村助役や石川教育部長らは、抗議も受けるし責任も取って善処すると繰り返すばかりでらちが明かない。あとで警察署に行ったグループに話を聞くとやはり同じようなもので、「命令で動いている」と繰り返すばかりだった。
 その後も彼らは何度となく市役所を訪問し、東京や横浜、川崎などではお互いが妥協点を見つけて朝鮮人側の要求が通っているのに、なぜY市だけがこれほど強行な態度をとり続けるのか説明を求め続けた。しかし結果は同じことの繰りかえしで、しかもそのうち市長も助役も、警察署長も指導課長も彼らに会おうとしなくなった。
 こうして1ヶ月ほどすると、彼らの間にどうしようもないあきらめの雰囲気が漂いはじめ、彼らの団結は下から徐々に崩れようとしていた。
 そんな中、事件は意外な転回を示すことになった。
 ある金曜日だった。東淳がY市の事務所を訪れると何やら人々が活気づいていた。話を聞くと、朴正一という一人の若い青年が、ひそかに集落のおかみさんたちや、学校の先生・生徒たちを口説き落とし、市長が登庁するのを見計らって市役所に押しかけたというのだ。彼らは市長室を占拠し、応対した木村助役や石川教育部長に詰め寄って、問題の解決の約束を取りつけて帰ってきたのだった。
 東淳は事務所の隅の方にうずくまっている朴正一に目をやると、彼はようやく自分の行動が意味するものを理解したのか、顔をおおって泣きだした。
 そこへ公安係の人間が事務所の窓から顔を差し入れて、軍政部から責任者二名を出頭させるようにとの電話がはいったことを伝えた。ようやく集落の人々は、行き着くところまで事態が行き着いたことを実感した。出頭しようとする韓元道を制止して、Y市の応援をすることになってやって来たばかりの李小寧が、自分が出頭すると叫んだ。朴正一は自分を出頭させて欲しいと頼んできたが、東淳はそれを制して、自分が行くから心配するなど言った。
 と、東淳はいきなり大きな声を張り上げて笑い出した。

 1949年秋に日本全国で朝鮮人学校が閉鎖に追い込まれつつあったとき、金達寿は横須賀市の市役所に抗議に行っているが、おそらく「前夜の章」は、この顛末を小説化したものではないかと推測される。作中の安東淳のモデルが金達寿、得淳が兄の声寿であることは明らかだが、その他の登場人物のモデルは不明である。
 またこの小説には「四斗樽の婆さん」と呼ばれる人物が登場しているが、達寿は49年3月から、やはり朝鮮人学校閉鎖の様子を描いた「四斗樽の婆さん」という題名の未完の小説を書いており、物語の内容から同一人物だと思われる。ただし「四斗樽の婆さん」と「前夜の章」との関連性については不明で、金達寿自身も何も語ってはいない。しかし内容的には「前夜の章」は「四斗樽の婆さん」を改稿ヴァージョンと言っても差し支えないほどである。

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