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金達寿事典

族譜(小説)
空白

 金宗泰・敬泰兄弟が、渡日して12年ぶりに故郷を訪問したときの光景を描いた小説。『新芸術』1941年11月号に大澤達雄の筆名で発表。伏せ字なし。

 30歳の宗泰と23歳で今年大学に入った敬泰が故郷に戻ると、そこには粗末な家に暮らしつつ、両班の掟をかたくなに守り続ける叔父・金貴厳がいた。彼は兄弟の父親・金貴文(すでに死去)の弟で、朝鮮王朝末期に「参奉」という位を授かっていた人物である。
 貴厳は兄弟を両班の格式をもって遇し、宗泰もやはりしきたりどおりこれに応え、叔父が求めるままこれまでの経緯を話しはじめる。しかし宗泰と違ってほとんど朝鮮語を話せない敬泰はこの空気に耐えられず、外に出る。敬泰は生家のあった方向に向かって歩き、そして裏山に登って幼いころの記憶をたどり、夕方、貴厳の家に戻ってくる。
 貴厳と宗泰は族譜(一族の家系図)を見ているところだった。敬泰は叔父に怒られ、手を洗ってから自分も族譜を眺めるが、にわかに寂しさに襲われ、またふたたび外に出ていく。
 その晩、貴厳宅に泊まった兄弟は、夕食をともにするが、あまりに味覚が変わってしまったことに驚き悲しくなってしまう。みたび外出した敬泰は、貴厳の家と隣の李甲得の家だけに電灯がともっているのに気づく。たまたま出会った幼なじみに理由を尋ねると、最初はみんな加入したが、月末になって40銭の電気料金を請求されたため、それを払えるのが2件しかなかったのだと答えた。
 どこからか愛国行進曲が聞こえ、幼なじみは、小学4年生以上は朝鮮語を使わないことにしており、もし使ったらお互いに先生に言いつけることになっていると語った。
 敬泰が幼なじみに、みんなそんなに内地に行きたいのかなと尋ねると、この村で行きたくない者はいない、そのために駐在所に通わない者はないと答えた。敬泰は、内地に行っても仕事と言えば屑拾いのような惨めなものしかなく、皆が思っているようなことはまったくないと言うが、幼なじみは敬泰が洋服を着ているのを見て、それを信用しない。
 そうこうしていると、敬泰のところに白装束の老人が近づき、龍植(彼の孫か?)をなんとか一緒に内地に連れて行ってほしいと頼まれる。しかし警察の内鮮係から渡航証明書を余分に発行できないと事前に言明されていたため、敬泰はそれを受けることができず、側にいた李甲得が老人をきつい口調で諭してくれた。甲得は宗泰とともに、村から小学校に通ったたった二人の「知識人」の一人だった。
 その甲得のところに村人が、「創氏改名」するために何か良い性はないかとお願いしにきた。甲得は彼に「徳山」という名字を提案し、宗泰・敬泰にも創始改名をするよう促す。聞けばこの村で改姓していないのは貴厳ただ一人だという。朝鮮で言い争いをする時の悪口に、この姓を変えてしまう奴めが、という言葉があるが、しかしこの兄弟は新しい習慣を知っていた。眠りながら、敬泰は宗泰に、「金光敬泰」というのはどうかと言う。
 翌日、貴厳の命で兄弟は中里山に墓参りに行くことになる。貴厳はこの山を抵当に、350円を借りていた。兄弟は京城に行くのを諦め、この借金の返済に充てようと話しあった。
 貴厳は兄弟に朝鮮服を貸し与えるが、ここでも敬泰は朝鮮服を着るのに苦労する。貴厳に手伝ってもらって敬泰は何とか着、兄とともには参りをするが、貴厳は先祖に顔向けができないと、途中の松の木の木陰に座り込んでしまった。
 墓参り後、宗泰は貴厳に金を貸している全定善を尋ね、敬泰は「創氏改名」をするため面事務所を訪れた。慣れない朝鮮語で、用紙をくださいと頼むと、戸籍係からアクセントのひどい日本語で、若い者が日本語を使わないでどうするんだとたしなめられ、いったんは表に出るが、帰ってきた宗泰と話した後、非常に流暢な日本語であらためて「創氏改名」をお願いする。
 その夜、村中の人々を集めて宴会をし、ひとりきり騒ぐと、酔っぱらっている貴厳を布団まで運んで寝かしつけた。外では婦人たちが後かたづけを手伝っていた。
 と、外が急に騒がしくなった。兄弟が慌てて外に出ると、貴厳がポプラの木の一つに登って村中に響き渡るような大声でわめいていた。村人たちが降ろそうとしたその途端、バランスを崩して貴厳は木から落ち、絶命してしまった。
 貴厳の葬儀が営まれ、彼は中里山に葬られた。
 宗泰は敬泰を連れてその場を離れた。宗泰は族譜を担いでおり、龍植と、敬泰の幼なじみでよく喧嘩していた相度の二人が松の枯れ枝を担いでいた。
 宗泰は河原の砂利石の場所を見つけると、相度と龍植に指示して枯れ木を積み上げ、その上に族譜を重ねた。そして彼は、火を付けた。
 兄弟が見守るなか、貴厳が後生大事に保管していた族譜は灰となった。

 金達寿は「位置」を書きあげたあと、大学の夏休みを利用して、1940年夏、母・孫福南と兄の声寿と三人で故郷に帰った。達寿にとっては10歳で渡日して以来、初めての帰郷だった。
 達寿によれば故郷には叔父が妙な女性と暮らしていたらしく、「族譜」はこの時の体験を素材にしたものである。しかしもちろんこの叔父は小説どおりの人物ではなく、いろいろ脚色されている。また敬泰という名前をもった人物は、この後、『玄海灘』や『太白山脈』など彼の代表的な小説に形を変えて登場しており、いわば金達寿の分身とも言える。ちなみに小説中で敬泰が提案した「金光」という名字は、実際に金達寿が「創氏改名」して使っていたものである。

 この小説は、族譜に象徴される朝鮮の伝統を否定し、「創氏改名」などで朝鮮人が日本化することを肯定する内容になっているように見えるかもしれないが、内地での暮らしがどれほど惨めなものかと語る敬泰の言葉などから、どのように良く描くこともできない在日朝鮮人の置かれた境遇がうかがえ、時代状況を考えても単純に「親日」的な小説だと断定することはできない。

 金達寿は戦後、この小説を書きなおして同じ題名で『民主朝鮮』に発表し、さらに大幅に書きなおして題名を「最後の参奉」にあらためて発表した。そして単行本化にあたって題名を「落照」とした。これが決定稿であるため、『芸術科』に発表されたこの「族譜」はどこにも収録されていない。

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