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金達寿事典

祖母の思ひ出(小説)
空白

 金達寿が亡き祖母との思い出を、ほぼ実体験のまま綴った短編小説。もともと『鶏林』という原稿を綴じただけの回覧雑誌に発表したものだが、戦災で原稿が燃えてしまったため、新たに書き起こして『民主朝鮮』1946年4月創刊号に孫仁章の筆名で発表。

 主人公の「私」は「両班の名残のある裕福な家」に生まれたが、破産してしまい、一家は渡日して郷里には「私」と中兄と祖母が残された。「私」たちは日本からの仕送りを受けて細々と暮らしていたが、間もなく中兄が亡くなり、続いて日本から父が亡くなったという電報が届いた。まだ37歳の一人息子と孫を亡くした祖母は毎日、皺の多くなった眼に涙をため、髪の毛もいっぺんに白くなったように老けこんでしまった。
 やがて日本から父の遺骨が送られ、それと前後して叔父が「私」の郷里にやってきた。叔父は「私」を日本に連れて行くつもりで帰ってきたのである。翌日、「私」は祖母を一人残して叔父についていくことになり、風呂敷包みを持って汽車に乗った。どうしても朝鮮の土に骨を埋めたいといって渡日を拒んだ祖母は一人残され、「私」の乗った汽車が動き出すとその場にへたへたと坐ってしまい、地面を叩いて泣き出した。
 こうして「私」は叔父宅についたが、叔母からひどく自尊心を傷つけられる言葉を投げられ、明日になったら何としてでも祖母のもとに帰ろうと固く決心した。
 そして翌日。「私」は叔父夫婦の目を盗んで逃げだし、線路を伝って懸命に道を戻っていった。馬山に辿りつき、そして日が沈もうとするころ、ようやく「私」は郷里の洞の入り口まで帰ってきた。と、「私」は祖母の姿を見つけ、祖母もまた「私」を見つけた。再会した二人は互いに抱き合い、そして泣いた。
 祖母はなぜか、「私」が帰ってくると信じていたらしい、というのも昨日までと同じように晩ご飯を二人分用意して表で待っていたからだ。こうして二人はまた、郷里の家で一緒に暮らすことになった。
 しかし「私」はそれから2年後、やはり迎えにきた兄について、今度は祖母を残したまま渡日してしまった。祖母はその後、別の叔母に引き取られて一生を終えたのだが、「私」がそれを知ったのはずっと後になってからだった。今、日本で暮らす「私」は、郷里を想っては祖母のことを思いだすのである。

 金達寿が渡日したのは10歳のときであるから、「祖母の思い出」に描かれているのは彼が8歳ごろのエピソードだと推測される。ただし作中では、叔父についていったときの「私」の年齢は10歳だったと、数え年で記されている。小説の内容は金達寿の伝記的事実とほぼ合致しており、いわば彼の心のなかに広がる原風景が感動的に描かれていると言える。実際、彼はこの小説を書きながら涙が止まらなかったという。
 金達寿は生涯にわたって祖母をこの上なく敬愛し続け、本来は長男が執りおこなうべき祭祀も、祖母の分だけはわけてもらって行っていたほどである。しかし現在のところ、この祖母の名前も生没年もわからない。
 なお金達寿は1940年夏に里帰りをした際、先祖の墓を参っており、おそらくこの時にはじめて祖母の死を知ったものと思われる。

 作中の馬山は2010年7月まで慶尚南道にあった地名で、1960年に李承晩政権を打倒した、いわゆる「四月革命」につながる市民と学生のデモが最初に起こったことで知られる。現在は昌原市に編入されて馬山合浦区と馬山会原区が置かれており、後者が金達寿の郷里がある地域である。また鉄道は、1905年4月1日に開業された韓国鉄道慶全線馬山駅が中心となる駅(ただし現在の場所は当時とは違う)で、金達寿の郷里のある中里駅(1923年12月1日開業)はその隣である。

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