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金達寿事典

濁酒の乾杯(小説)
空白

 黄山運岐という朝鮮人憲兵の出現によって、安東淳が暮らす朝鮮人集落が大混乱に陥るが、安東の機転で黄山を集落に引き込むことに成功したという話。『思潮』13号(1948年9月号)に発表。

 主人公の安東淳はY市の新聞社に勤める記者である。その彼にある時、黄山と名乗る人物から電話が入った。黄山はこの度、憲兵として安東たちのいる集落にも訪れることになった朝鮮人だった。彼の出現によって、集落は大混乱に陥った。というのも、集落では生活のために濁酒を作って販売していたが、朝鮮人である黄山には彼らの会話は筒抜けだったからだ。実際、彼のせいで濁酒の密造が発覚し、ブンネアジュモニ(ブンネおばさん)や承益爺さんたちがこってり油を絞られ、その場で濁酒の入った瓶を海に投げ捨てられるということもあった。
 安東は濁酒を作っていなかったが、やはり黄山に知られては困ることがあった。というのも安東は以前、Y市の山奥で豚を飼っていた金鎮周という朝鮮人を、自分の社員証を使って玄海灘を渡らせたことがあり、黄山から電話があった際、とっさにこの件で自分を調べにくるのではないかと疑ったのである。安東は、彼をたずねて新聞社を訪れた黄山に、いつ「ちょっと隊まで一緒にいってもらいたいのですが」などと言われるか戦々恐々としていたが、黄山は自分からはそのようなことは言わなかった。
 と、そこへ消防署に勤める江原という朝鮮人から電話がかかってきた。安東は彼に、今日は一緒に飲もうと話し、消防署へ行こうとすると、黄山も一緒について来た。安東は隙を見て江原に、黄山を集落に連れて行って濁酒を飲ませようと言い、そのまま三人はバスに乗った。
 集落に着くとまず江原が降り、続いて安東も降りた。すると黄山も後に続いて降りてきた。そのまま三人は集落の方に向かい、鄭ダングナグ(驢馬の意味)の家に上がった。そして鄭に承益爺さんの濁酒を頼み、さらにトングチャング(モツ)を焼いた。黄山は安東に、この集落の人々の生活についてどう思うかと尋ねたが、安東はそれに答えず、彼に濁酒を勧めた。と、黄山は何も知らない顔をして肉を噛んでいた。安東はよし、と思い、お互いに朝鮮人だ、友達になろうと笑うと、黄山も、「これで金鎮周も行方不明となったわけですな」とぶすりと言って肉を噛み、濁酒を飲み干した。

 この時期の金達寿は自分や家族、友人たちの体験をそのまま小説に描いているが、この小説もその一つである。名前はすべて仮名になっているが、作家の金史良が「金士亮」となっているなど、ほとんどの登場人物は容易に特定が可能である。
 作中に登場する黄山運岐も、やはり実際にいた人物である。金達寿はあるエッセイでこの人物の本名を書いているが、朝鮮語を解する憲兵の出現は、都合の悪いことは朝鮮語で話していた集落の人々にとって致命的であった。そこで達寿は彼をどうにかして仲間に引き込もうと考え、その結果、彼に濁酒を振る舞うことを思いついたという。
 なお黄山運岐のモデルになった朝鮮人であるが、金達寿によれば、小説で描かれるように朝鮮人集落を監視する一方、戦争末期には、かつて関東大震災のときに起こった日本人による無差別虐殺から集落の朝鮮人を守るために憲兵の制服を着て集落をうろうろするなど、決して日本帝国主義に魂を売り渡した親日派ではなかったという。また彼は、広島に原爆が落とされた際には、その日のうちに達寿にそのことを伝えている。達寿が戦争の終結が間もないことを確信できたのは、一つは自伝で書いているように8月11日(自伝では10日となっているが11日の誤り)における記事であるが、この人物からの情報も大きかった。

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