トップ画像

金達寿事典

炭礦で会った人(小説)
空白

 「私」が中屋文治・西村本吉とともに北海道の講演会に参加して各地の炭鉱の様子について話を聞くとともに、最後の炭鉱での講演会で、同じ三文字の名前(「金……」)を持つ「私」に話しかけてきた、金丙宇という男についての短編。『新日本文学』1955年11月号に発表。

 「私」たち3人が北海道を訪問したのは、たんなる旅行というわけではなく、創立10周年を記念して、新日本作家会議の支部主催で開かれる講演会で講演するためで、その日程は、まず函館・札幌・旭川・釧路など都市を中心にまわり、その後、北海道地方炭坑労働組合による6つばかりの炭鉱をまわるというもので、半月ほどの予定だった。そしてその際の演題は、西本が「生活綴方運動と文学」、「私」が「民族の独立と文学」、中屋が「戦後十年の日本文学」というものだった。
 この講演会に「私」が加わった動機は、まだ行ったことのない北海道という土地に惹かれたことと、そこで朝鮮人労働者たちがどのように暮らしているのかを、この機会にじかに調べてみたい、そしてさらに日本の先進的な炭鉱労働者たちに会いたいと思ってのことだった。
 しかし炭鉱を見たいという「私」の希望は、最初の炭鉱を訪問したときにうち砕かれた。というのも炭鉱は非常に危険な場所だが、もし「私」たちに万一のことがあると、その補償は組合が負担しなければならないからだ。だから組合にとって迷惑なので、今後もそういう希望は言わない方がいいと、最初に訪れたU炭鉱の組合幹部の一人・立井は教えてくれた。実際、「私」たちが訪れたM炭鉱では、訪問したその晩に落盤事故で死んだ鉱夫の通夜が行われていた。
 「私」たちは各炭鉱で講演をし、組合幹部や職員たちから炭鉱の規模や現状などを話してもらった。そして思いがけずM炭鉱では、組合員の方から「炭鉱に入りますか」と持ちかけてきた。「私」たちは落盤事故の危険などについて話を聞いていたので断ったが、やはり坑内に入ってみたいという好奇心を押さえられず、次のA炭鉱で、夜に坑内に入れてもらった。
 こうして「私」たちは、最後の訪問先の炭鉱での講演を終えると、いつものように、あてがわれた宿舎に帰って寝る準備をはじめた。と、そこへ宿の女中から、「私」に面会者があるという連絡を受けた。「私」が玄関口に出てみると37,8歳ぐらいの男が扉の向こうに立っており、「私」はその顔を一目見た瞬間、なぜかぎょっとして、「朝鮮人!」と思った。
 金丙宇と名乗るその男は、「私」と外を散歩しながら自分の生まれ故郷のことなどを話したが、それが終わると黙ってしまった。そしてしばらくのち、彼はいきなり、「どうも、不満でやす……」と言った。
 丙宇は朝鮮で田圃に堆肥を入れる仕事をしていたとき、いきなり徴用され、何が何だかわからないまま北海道の炭鉱に連れてこられたという。そこにはすでにたくさんの朝鮮人が働いており、彼らは2年の約束で来ているから、もうじき帰ることができると言っていた(しかしそうではなかった)。
 彼は毎日、腹を空かせながら一生懸命働き、やがて川太という信号係の日本人の爺さんと仲良くなったり、その娘から日本語を教えてもらったりした。そうこうするうち、彼は戦争が終わったことを聞かされ、郷里に戻ってのびのびと働いてくらしたいと思い、引揚を待ちわびて毎日を過ごした。
 やがて引揚が始まり、彼は川太爺さんに別れの挨拶をしに行った。すると爺さんから、お前はここに残って娘のヨシ子を女房にして暮らすんだ、と怒鳴られ、そのままここに残って結婚して暮らすことになり、今に至ったという。
 そういうところに本貫を同じくする「私」が訪れて、彼は非常に嬉しく、講演の内容も立派でよくわかった、けれども、「わっしは何だか、不満でやす」という。それがなんなのかはよくわからないけれども……
 「私」にもその「不満」の意味ははっきりわからなかったが、しかし少しはわかりかけてきたような気がして、彼の手を取るためにそっと近寄っていった。

 自伝『わが文学と生活』pp.206-211によれば、達寿は実際に中野重治・西野辰吉とともに、1955年8月、北海道に講演旅行に行っており、この短編はそのときの体験を素材にして書かれたものである。彼によれば「当時の炭鉱労組の幹部はかなり官僚主義的で、その下の労働者たちは資本家からとともに二重の圧力を受けているのではないかと思われたものだった」という。
 この旅行では、他にもアイヌが「見せ物」になっていることに心を痛めたり、中野が小林セキ(小林多喜二の母親)に、まるで自分の母親のように甘えている姿にびっくりしたことなどが記されている。
 小説の題名は、単行本に収録する際、「旅で会った人」と改題された。

ページのトップへ戻る
inserted by FC2 system