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金達寿事典

壺村吉童伝の試み(小説)
空白

 作家である「私」が友人の徐千里から、県会議員の壺村吉童の半生を、立志伝中の人物のように書いてほしいと依頼される話。『別冊文藝春秋』69号(1959年9月)に発表。

 主人公の「私」は東京在住の作家である。「私」には徐千里という、20年来のつき合いのある土木請負師がいるのだが、彼がある日、県会議員の壺村吉童の半生を、彼が立志伝中の人物であるように書いてほしいと依頼しに「私」を訪ねてきた。次の選挙で「国会議員の代議士」になるから、その運動のために必要なのだという。「私」が壺村についていくつか質問をすると、彼は与党である自由党に所属しており、「田辺五郎」という有名な現職の閣僚と太い繋がりを持っているという。
 「私」は徐千里に、どのように書くかはともかく、自分には壺村の本当の生まれ育ちを教えてもらわないと本当らしく書けないと言い、徐千里から壺村のことを聞かせてもらう。聞くうちに「私」は非常に興味を持ち、その場で壺村に会わせてもらうよう頼んだ。
 5,6日後、「私」は徐千里とともに、東京隣県の県庁所在地であるA市の駅に降りたち、壺村が経営しているホテルで彼と待ち合わせた。壺村は「私」より2,3歳年長だが、「私」は会わないうちから彼を「何となくイヤな奴」とばかり思っていたが、時間どおりあらわれた彼は、「私」が想像したのとまったく違い、「いかにも金のある、そして有力な県会議員といったタイプ」の男で、「若干、好意に似たもの」さえ感じた。「私」は彼に会って、ますます彼の「自伝」を書きたいと思うようになった。

 壺村は本名を李源錫といい、釜山に近いある島に生まれた朝鮮人で、「吉童」という名前は帰化した際に付けたものである。彼は「終戦の翌年」、混乱のどさくさに紛れて日本に密航してやって来たのだった。当時、在日朝鮮人はわれ先に朝鮮半島への帰国を急いでいたのだが、彼は逆に、敗戦後の日本に渡り、大学を卒業して帰りたいと考えていたのだ。
 彼は京都のある日本人宅に下宿先を見つけて関西の某私立大学に通い始めたのだが、2年と経たないうちに彼は、下宿先の娘の壺村民子と子供を作ってしまった。そのため彼は大学を辞め、下宿を出て所帯を持たなければならなくなった。
 彼は学校での知り合いのツテで、A市でパチンコ屋を開店したという金一雄を頼って、現在から10年前にA市にやってきた。金一雄のパチンコ店は、国鉄駅前という再考の立地にあったが、最初からあまりにも店を巨大にしすぎたことと、パチンコ店の土地家屋の所有者である上田半助という老人に金を儲ける意欲がなかったため、資金繰りが悪化し、李源錫がやって来てまもなく夜逃げをしてしまった。こうなると李源錫もどこかへ移らなくてはならないのだが、間もなく京都から、民子が子供を連れて上京したために動けなくなり、そのままパチンコ店に居座り続けた。
 この新しい住人の出現に驚いた上田は「ここは2000万円の価値があるのだから」と、すぐに立ち退きを要求し、「金一雄」の標札を引っぺがして「上田」に付け替えた。李源錫の一家は恐縮して、猶予を請うばかりだった。
 しかしここで李源錫に転機が訪れる。関東急行鉄道株式会社開拓課長の肩書きを持つ、周藤信介なる人物が旧パチンコ店を訪れ、李源錫と民子を上田の娘夫婦と勘違いしたまま、彼に土地を売るよう持ちかけたのである。ちょうど上田が娘と暮らすための住居を探すために京都に出かけて不在なのを幸い、李源錫は1億円でも売らないと返事をした。すると周藤は手付け金として2000万円を彼に渡すことを約束した。そして2日後、必要な書類と印鑑を李源錫が用意すると、周藤は約束どおり2000万円を渡し、残りは立ち退きと同時に指定した銀行に振り込むと告げた。
 李源錫と民子はどうしたものかと悩んだが、翌日、この金を返すことにした。そこで彼が金を風呂敷に包んで本社を訪れたところ、周藤は逆にさらに500万円の小切手を李源錫に手渡し、こういうことは二度としないようにと念を押した。こうして2500万円の入った風呂敷包みを背負って電車で帰りながら、ふと彼に一つの考えが浮かんだ。
 李源錫は上田から1900万円で旧パチンコ店の敷地を買いとり、8000万円と合わせた金を元手にして古い建物を買いとった。彼は老朽化した建物を壊してホテルを建てる予定だったが、取り壊しの前日、「乞食」のたき火が原因で建物が焼失してしまった。が、幸い、前の所有者が火災保険に入っていたため、彼の懐にはまた8500万円が転がり込んできた。そして今に至るというわけである。

 「私」は、こういう人物を朝鮮語では「犬福者」と呼ぶのだが、と思いつつ、しかし金があるだけで県会議員になれるはずがなく、その意味では彼自身にも相当の才覚があると見なければならないと考え、この後について書くために「私」は現在、資料を集めつつ、彼の活動を見守っているところだという。

 金達寿はしばしば、自分の体験や友人・家族から聞いた話を素材に小説を書いているが、この小説に具体的なモデルがいるかどうかは不明。
 なお、本文中で言及されているように、「吉童」とは朝鮮時代の小説『洪吉童伝』の主人公の名前から取ったものである。

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