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金達寿事典

をやじ(小説)
空白

 夫の死後、一人で子どもを育ててきた母親の茂が、あるときから一緒に住むようになった荻野という人物をめぐって巻き起こされる家族内の騒動を、茂の次男である健吉の目をとおして描いた短編小説。『芸術科』1940年11月号に発表。伏せ字はなし。

 東北で妻子とともに暮らしていた父は、祖父から相当の遺産をもらっていたが、忽ちのうちに使い果たしてしまい、更生を誓って東京に出てきた。しかし彼は慣れない工事現場での仕事で体をこわし、遊蕩の病根も加わって程なく喉から血を吐いて死んでしまう。
 残された母親の茂は、父が残した三百円余を元手にして工事現場の近くで「飯場のような下宿のようなもの」を始めた。しかし工事の完成とともに労働者は散り散りになってしまった。茂は最後まで残っていた田中という人物と親しくなった。田中は好人物だったが、三月とたたず茂にお金を送らなくなり、彼女の子どもたちである啓介・健吉・竹子の面倒も見なくなった。やがて田中に代わって、やはり飯場に最後まで残っていた荻野という男性が、茂の部屋で寝るようになった。しかし荻野はごく平凡な男性でしかなく、茂の当ては完全に外れてしまった。
 荻野は茂の生活にこれと行った支えとなるわけでもなく、また子どもたちが大きくなってくるにつれて、健吉たちの従兄である重三がしきりに荻野を出て行かせようとする。そのたびに健吉たち三兄妹は、この問題は自分たちの問題だからといって重三の主張をかわしてきた。また荻野は啓介の嫁である芳江と非常に折り合いが悪かった。こうしてあるとき、ついに酔っぱらった啓介が荻野に、自分たちをどうしてこんなに苦しめるのか、もう出ていってくれと言ったため、荻野はすぐに荷物をまとめて出ていくが、茂も荻野と一緒に出ていってしまう。
 荻野と茂はいったん、窪田という、彼ら一家の生活をよく知る人物のところに厄介になるが、その間に竹子の提案をきっかけに、啓介と健介が近所に二人の住む部屋を別に探しだす。彼ら兄妹は二人をそこに住まわせ、生活費を渡すことで円満に問題を解決しようとしたのである。
 ところが荻野と茂は子どもたちが知らない間に屑拾いの仕事を始めた。子どもたちは体面を気にして止めてほしいと訴えるが、身体が動くうちは何かしたいと、茂たちは応じない。
 一月ほどして、健吉たち家族と荻野の関係や、茂たちが屑拾いをしていることが周囲に知られ、荻野と茂が子どもたちの家に戻ってきた。関係は以前と変わりないが、しかし以前と違って荻野は啓介とも言葉を交わすようになり、芳江も荻野に孫の子守を頼むようになった。
 子どもたちは荻野を「おやじ」と呼ぶようになり、家の中は茂の笑い声が絶えなくなった。

 金達寿の自伝『わがアリランの歌』によると、1934年ごろに彼の母・孫福南が世話をしてくれた人とともに横須賀に住むようになった。働くことしか知らない人の良い人物だったが、達寿たちはその男性をどうしても父と呼べず、最後まで「じいさん」と呼んでいた。この小説はおそらくこの人物が暮らしていたある時期の体験を素材にしたものだと思われ、小説の家族構成も達寿たちの実際の家族構成と同じである。だが主人公の父が東北の出身となっているなど、小説化にあたって変更されている箇所もある。

 「をやじ」は「位置」に続く彼の二作目の小説であるが、「位置」に伏せ字が多かったのに恐れをなした達寿は、この小説では大澤達雄という筆名を用いた。発表後まもなく、野村尚吾が『早稲田文学』(1941年1月号)の同人雑誌批評でこの小説を取りあげ、「作中人物の細い心理の陰影を、行き届いた眼と的確さを以つて描かれた佳作である」と評価した。しかし同時に、この小説を読みながら菊池寛「父帰る」を思い出したとも記しており、それを読んだ達寿はこの小説を、いわば廃棄処分にした。このためこの小説は『金達寿小説全集1』(1980年6月 筑摩書房)に「おやじ」の題名で収められるまで、どこにも収録されないままだった。

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