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金達寿事典

矢の津峠(小説)
空白

 矢の津峠を往復しながら屑拾いの仕事に精を出す「うし爺い」こと李文在の話。『世界』1950年4月号に発表。

 「うし爺い」こと李文在は、自分が住んでいるY市と、有名なU船渠の造船所があるU町を、その間をつないでいる矢の津峠を往復しながら、主にU町の「ひがし」とよばれる海岸あたりをなわばりにして、屑拾いで生計を立てている朝鮮人である。彼は特に背が高いというわけではないし、太っているわけでもないが、とにかく力持ちで、ゆうに三人分の働きをする。
 彼はもともと朝鮮で作男として生まれ、40数歳のときに主人の好意で家の下女と結婚して容太という名前の男子をもうけた。しかし主人の家が没落して暇を出され、さらに妻も逃げ出したため、彼は募集に応じて渡日し、「裏日本」のある地方で働いた。しかしその働きぶりが仲間の反感を買って半殺しの目にあい、流れ流れてY市で屑拾いをするようになったのである。
 彼は非常に寡黙で交渉ごともできないが、とにかく薄利多売で屑を集めており、またその比類なき力と働きぶりで、Y市では知らぬ者がいない有名人だった。
 彼は拾った屑を、車を借りていた斉藤という日本人の仕切り問屋に運んでいたが、ある時から主人公の準の家がやっている仕切り問屋の方に来るようになった。準が夜間中学4年を終わる頃、彼の母親がうし爺いに、「準が大学を卒業するまで、どうか」と頼みこんだのだった。
 日本の敗戦後、準はただちに朝連の運動に飛び込み、また容太も民青に入って活躍した。変わらないのはうし爺いだけだった。彼が変わったことといえば準に会うたび「独立できるか」と問いかけるようになったことぐらいだった。
 そして1949年9月8日、朝連が強制解散させられ財産が没収されるとともに幹部が公職追放を受けると、準たちはそれに反対する裁判闘争を開始した。うし爺いが魚の骨を喉に詰まらせ、Y共済病院に入院したのはその頃だった。
 準が病室を訪れるとうし爺いは元気そうで、ベッドの側には和服姿の女性がいた。うし爺いは準が来たことを知ると声をかけ、彼女を指した。彼女は村田まつという日本人で、うし爺いが戦後のあるとき、矢の津峠で「拾ってき」て以後、うし爺いの家で暮らしている女性だった。
 5日ほどでうし爺いは退院した。そしてそれからしばらく後、うし爺いとまつとは結婚した。
 11月ごろ、朝鮮関係の裁判闘争の第1回が開かれた。しかし裁判はまったく権力の恣意がまかり通るまま行われ、そのまま終わった。人々は口をきくのも嫌になって散り散りになり、準も一人になってY市まで電車で戻ってきた。
 と、顔をあげて矢の津峠のほうを見ると、うし爺いの姿が見えた。準はいつも、うし爺いの姿を見ると元気が出るのだが、今日もうし爺いからいつもの挨拶をきいて、そうしたら結婚したうし爺いを冷やかしてやろうと思った。準が声をかけると、果たしてうし爺いは「うむ、どうだ。ドクニプ デクンナ」といつもの挨拶をしてきた。準はしかし、うし爺いの顔を見ると、思っていた冷やかしの言葉が出てこなかった。準はいつものように力強く頷くことも忘れてうし爺いの顔を見ていた。

 金達寿は自分や家族・友人たちの体験などから得た素材をもとにして、数多くの小説を書いているが、「矢の津峠」もその一つである。
 まず「うし爺い」であるが、彼は金達寿の自伝『わが文学と生活』にも登場する、「徐岩回」という人物である。彼は作品中では「U町」となっている横須賀市浦賀町の浦賀船渠(のち住友重機浦賀造船所)から出てくるスクラップを集めて仕切り問屋におさめていた。作品にも記されているが相当の有名人だったらしく、1980年代末になっても住民の間に、彼はリヤカーにメリーという犬をつないで「ハバハバ」(ハリーアップの意らしい)とけしかけていたとか、浜辺で倒れた主婦を助けたこともあるなどのエピソードが残されている。
 準はもちろん金達寿自身のことだが、うし爺いの息子の容太をはじめ、他の登場人物もすべて実在の人物だという。

 なお、うし爺いのモデルとなった徐岩回であるが、おそらく北朝鮮への帰国事業が盛んだった時期と思われるが、息子一家とともに北朝鮮に渡り、その数年後に亡くなったという。息子たちはその後も健在のはずだというがわからない。金達寿は80年代半ばごろ、一時帰国する知人に、この息子一家に贈りたいと5万円を託した。しかしその知人は消息をつかむことができず、5万円は達寿の手元に戻ってきた。

 ちなみに、金達寿にこの小説の執筆を依頼したのは、当時『世界』編集部にいた塙作楽である。塙は金達寿の「番地のない部落」に感動して49年に彼に会っていた。のちに金達寿は、小説を発表しても原稿料が入ってこない貧困生活のなか、塙のおかげで岩波から原稿をもらえたことは非常に有難かったと語っている。

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