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金達寿事典

夜きた男(小説)
空白

 李承晩政権が打倒される直前に「南朝鮮」からやって来たという都平沢なる人物をめぐる話。『別冊文藝春秋』1960年6月号に発表。

 4月20日の朝、「私」は、妻が自分の枕元に新聞をおく音で目が覚めた。ぼんやりした頭のまま「私」は新聞を眺めたが、次の瞬間、がばっと跳ね起きずにはいられなかった。どの新聞も、「京城」での大規模なデモについて報道していたからだ。1月ほど前から自分の生まれ故郷である馬山でデモが起こっていることは知っていたが、「私」は今回の事件の意味の重さを感じずにはいられなかった。
 と、そこへ都平沢が訪問してきた。「私」は彼に新聞を見せようとしたが、すでに彼の手にも新聞が何種類も握られていた。

 都平沢は2ヶ月ほど前に「南朝鮮」から密航して渡日した朝鮮人青年だった。彼は、朝鮮戦争に従軍しているさなかに起こった「居昌事件」で家族全員が殺害され、その後、「京城」で中学校教師をしていたが、身の危険を感じてついに密航してきたのだった。
 彼は「南朝鮮」にいたとき、どういうルートで手に入れたのかはわからないが「私」の小説を読んでおり、その本の発行所の住所と電話番号を頼りに、「私」を訪ねてきたのである。「私」は彼が「南朝鮮」のスパイである顔知れないという疑いを棄てきれなかったが、彼は「私」の妻の勧めで近所の下宿を借り、ときどき「私」の家を訪問してはレーニンや毛沢東など「南朝鮮」では御法度の本を借りて読み耽っていた。

 4月20日以後、「私」は「南朝鮮」の状況などを知りたい人びとから講演などを頼まれ、急に忙しくあちこちのサークルや労働組合などに顔を出すようになった。そうして「私」は、そうした講演の誘いや手紙などから、日本人の側でも今回の事件にたいして異常なほどの関心の高まりが起こっているのを感じずにはいられなかった。
 都平沢は「私」に、そうしたサークルに呼ばれて何を話すのかと尋ねた。「私」は、李承晩がどんなに売国奴であるか、そして、しかしそれに対抗する民衆は売国奴を追い出すために闘っているのではなく、国家や民族のための道を勝ちとるために闘っていることを話していると応えた。なぜなら売国奴を追い出すことは、それと逆の〝買国〟側の勢力をも出さねばならず、そうすれば敵をねじ伏せるために別の敵の手を借りることになってしまいかねないことを、民衆はよく理解しているからだ。そのことは、日本の新聞や週刊誌で、「兵隊のおじさん、お父さんたちを射たないで下さい」と紹介されている小学校生徒たちのスローガンが、実際には「軍人のおじさんたち、親や兄弟たちに銃を向けないで下さい」であることから明らかだと「私」は話した。
 話しながら「私」は、これで都平沢がスパイであったら尻尾を出すかも知れないと思ったが、しかし彼はうつむいたまま小さな声で返答するのがやっとのようだった。そして間もなく彼は「私」宅を後にした。
 その後、5月29日に李承晩が大統領の座を追われ、アメリカに亡命したというニュースが出ると、「私」はまたもどうしようもなく興奮し、ふと〝溺れる犬をも打たねばならぬ〟という魯迅の言葉を思いだし、「畜生! 〝打たねばならぬ〟ぞ」と呟きながら自宅に戻った。
 すると都平沢が、「南朝鮮」に帰るため挨拶に来ていた。一緒に夕食を食べながら、彼は「私」に世話になった礼を述べ、本当は北への帰国船に乗せてもらいたいと思い、その力添えを得るために「私」を訪ねたのだが、やはり「南朝鮮」に帰ることにしたと語った。
 「私」は彼を見送りながら、「こうなると、こちらにのこっているものは、いったいどういうことになるかね」と思い、彼を呼び止めた。しかし彼は振り返ると、「いけません。あなたはもし帰るときは、必ず北へ帰るのです」と言った。

 作中にもあるように、1960年4月20日、韓国全土で大規模なデモが起こり、それから間もなく李承晩政権が打倒された。本作はこの「四月革命」を背景にしたものだが、この事件の発端が、金達寿の故郷に近い馬山から起こったということもあって、彼の感慨はひとかたならぬものがあり、彼の政治的態度や文学作品にも少なからぬ影響を与えた。
 それがもっとも顕著なのは「朴達の裁判」である。金達寿は執筆当初、この小説にモデルはなく、あくまでも日本の同時代に起こった転向論争にヒントを得て書かれたと述べていたのに、四月革命以降、この小説のモデルをあえて探すならば、それは韓国の現在の状況にほかならないと、徐々に自ら解釈を変更していったのである。1960年代末ごろになると彼は解釈を戻しているが、現在も依然として「朴達の裁判」は金達寿の他の小説と同様、韓国の社会状況を描いた作品として読まれている。その原因の一つに、金達寿が四月革命から受けた衝撃があったことを見逃してはならないように思う。

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