トップ画像

金達寿事典

標札(小説)
空白

 昔昌真と井守よし子という、朝鮮人と日本人の夫婦のあいだに横たわる亀裂を、「国林」という、かつて「創氏改名」して付けられた苗字が書かれた標札をめぐるやりとりをとおして描いたもの。『新世紀』1952年11月号に発表。

 昔昌真は、急速な没落過程にあった家族が、家の復興を願って東京に留学させた朝鮮人である。しかし彼は、いろいろ学ぶなかで、日本の植民地下にあってその願いを叶えることは不可能だと諦めて大学を卒業せず、その代わり女学校を出たばかりの井守よし子と結婚して男子をもうけた。よし子の親類は、母親を除いて強く反対したが、よし子がそれをはねのけて家を出ていくと、やがて彼女の父親は結婚を許し、さらに子供を非常に可愛がった。しかしその子供は、彼女の両親宅を襲った爆撃によって、両親ともども爆死してしまった。
 そして間もなく戦争が終わると、親族や子供を失って悲しみに暮れるよし子とは対照的に、やはり子供を殺された痛みはあったが、それ以上に朝鮮の独立という未来に興奮し、朝連の運動に飛び込んだ。
 このような中、二人の亀裂はまず、「国林昌真」と書かれた家の表札をめぐってあらわれた。昌真はもちろん「国林」という姓など捨てて顧みなかったが、よし子は昌真が姓を変えるのはともかく、標札を変えることには強く反対した。急に三文字の名前に変えてしまうのは世間体が悪いというのだった。
 そこへある日、朝連の若い友人が3,4人遊びに来たが、彼らはめざとく標札に目をとめた。尹啓方という剽軽者が、「こんなものをまだ君はぶらさげているのか」と言って、帰り際にそれを外して玄関の前の溝に投げ捨ててしまった。それを機会に昌真はよし子を強く説得し、よし子はそれを認める変わり、自分にはわからない朝鮮語で話をする連中を家に近づけないことを約束させた。
 昌真は板を買ってきて、うきうきしながら新たに標札を作った。
 しかしやがて、朝鮮学校の弾圧や朝連の解散などの事件が起こり、よし子の怖れる在日朝鮮人の強制送還という話が出はじめてきた。よし子はただ、昌真が強制送還されないようにしてくれることだけが関心事で、昌真がこの闘いに夫婦として立ち向かっていかなければ、他に出口がないといくら言っても聞かなかった。
 そうしてある日、昌真が帰宅すると、家の標札が「国林昌真」に変わっていた。よし子が溝から拾い出して付け替えたのだった。二人は家の中でとっくみあいの喧嘩をしたが、結局は当分の間ということで、標札は「国林昌真」のままになった。
 とはいえよし子は、昌真が無理やり手渡した劉少奇論文集をこっそり読んでいたり、52年5月1日のメーデーのときには昌真に何も言わず参加するなど、ときに昌真を驚かせた。しかし在日朝鮮人をめぐる状況は悪化の一途をたどっていった。
 よし子はさらに、昌真を民族運動から引き離せば彼を強制送還からまぬがれさせることができると思い、あえて自分は働かず、自ら貧乏を選ぶことで、彼に仕事をさせようとした。
 そんな折、昌真は徐用哲と再会した。彼は昌真が戦時中に務めていた光航空計器時代の朝鮮人同僚で、戦後は三八産業株式会社の取締役専務をしていた。そしてその会社の社長は、航空計器の総務部長をしていた長谷川と言うことだった。
 昌真はついに、よし子の戦略に負けて働き口を探すことに決め、用哲に会いに会社を訪れた。しかし彼は用哲との会話のなかで、この会社が朝鮮戦争でさかんに使われているナパーム弾を作っていることに気づき、猛然と会社を後にした。用哲は、昌真の帰る間際、彼のズボンのかくしに5千円を差し入れた。昌真はそれを叩き返してやろうと何度も思ったが、そのことですでに固まっていたもう一方の別な決意がそれを引き留めた。
 昌真は帰宅すると、よし子に5千円を投げ出し、別れを告げた。彼は玄関に立つと「国林昌真」の標札を引きはがして前の溝めがけてたたきつけた。昌真の姿はみるみる小さくなっていき、よし子は彼の後を追って駆けだした。

 金達寿はしばしば、自分の体験や友人・家族から聞いた話を素材に小説を書いている。そのためこの小説にも何らかのモデルがあるのではないかと推測されるが、現時点では不明である。
 なお徐用哲が務めている「光航空計器株式会社」だが、かつて達寿の友人の張斗植が就職しようとして断られた会社が横須賀の航空計器会社だった(「雑草(小説)」を参照)。まったく証明のしようもないことではあるが、達寿が「標札」で航空計器会社を登場させたのは、あるいはこのことが頭の片隅にあったかも知れない。

ページのトップへ戻る
inserted by FC2 system